設定は旧設定の方になります。
『私はマリアンヌお嬢様のこと大好きですよ』
そう言って、その人はいつも愛らしく微笑む。
柔らかいスカートをはためかせ
金色の綺麗な髪を揺らし
蒼い双眸を細め
私だけに微笑んでくれる。
私は、その笑顔が好きだった。
広い広い海の上、巡洋艦ミネルヴァは今日も平和に航海を続けている。
そんな平和なミネルヴァに響く高笑いは、いつでも極悪的に元気なマリアンヌ・ロダーから発せられていた。
「お~っほっほっほっ、お待ちなさい水兵さん!! 今日はなんとしてもこのふわふわボレロを着てもらうわよっ!!」
「……やっ、やだってば……っ!!」
甲板の上で追いかけっこを興じているのは自信作のボレロを手に嬉々とした様子のマリアンヌと、顔を強張らせまるで野獣に追いかけられているかのように青ざめている水兵さん。それを眺めている艦員達の視線は生暖かい。
それもそのはず。この広大な海の上、娯楽と呼べるものは数が少ない。人の不幸はまさにその数少ない娯楽の一つなのだ。
また、それまではマリアンヌやパンダの暴走に当番制で付き合わされていた艦員達にとって、その娯楽の餌食になる対象がひとりで固まってきたのはありがたいことでもあった。
そうこうしている内に水兵さんはマリアンヌに捕まってしまい、哀れふわふわボレロに身を包まれてしまう。……が、ここで素直に哀れと思えないのは、ひとえに彼があまりにも女性の扮装が似合ってしまうせいだろう。
「ん~~❤ 水兵さんやっぱかぁわい~~~❤❤」
ご満悦に笑うマリアンヌの前で、水兵さんはえぐえぐと涙ぐむ。周りでは満足したように艦員達が引き上げている最中だ。
「さぁて、じゃあ次のお洋服つーくろっと。楽しみにしててね水兵さん!」
言うや否やさっさとそこから引き上げるマリアンヌ。水兵さんの、もうやだよ、という必死の訴えは聞こえていないだろう。
一人取り残された水兵さんの背を、ぽんと叩く者一人。振り返ってみればそこにいたのは、この艦の軍医であり、看護師であるマリアンヌの直属の上司でもあるロドリグ・エリオットだ。水兵さんはぺこりと頭を下げる。
「今日も災難でしたね水兵さん。大丈夫ですか?」
やわらかい微苦笑を浮かべるエリオットに水兵さんはいやそうにうなずいた。
肉体的には問題ないが精神的には全然大丈夫じゃない。だがこの人に文句を言っても仕方ないのを知っている水兵さんは、元より思ったことを口にしない性格も助けて不満は全て飲み込んだ。
その性格を承知しているエリオットも特に何を言うでもなく無理に着せられてぐしゃぐしゃになったボレロをゆっくり脱がせてやる。さすが医者だけあって手際がいい。水兵さんが気づいた時にはすでにボレロはその手の中でたたまれていた。
「それにしても、マリアンヌは本当に裁縫が上手ですね。資産家のロダー家の娘とはとても――」
思えない、とはわざわざ口にするまでもない。それが嫌味でないこともたたまれたボレロを眺めるその優しい視線から伺われる。
改めて言われて、水兵さんはそういえばと思い出す。
マリアンヌはあれでお嬢様なのだ。……それにしては破天荒だしあちこちで騒ぎは起こすし自分で何でもやるが。
水兵さんはエリオットを仰ぎ見る。
「……マリアンヌ、何でこんなになんでも出来るんですか……?」
「さぁ……どうしてでしょうねぇ? 艦に搭乗した時から結構なんでも自分でやっちゃう子でしたから。艦員達も驚いたものですよ。あのロダー家の娘が自分から雑用こなすなんて、って」
口元に手を当てて考え込む様子のエリオットに、水兵さんは彼もどうやら知らないらしいと確認した。余計なことを聞いてしまったかなと考え込んだその背に。
『乗船要望者あり。これより数分停泊します』
放送が二度流れた。それに応じて流れていた景色が止まる。ややあって、ざわめきが艦の後方から広がっていった。水兵さんとエリオットは顔を見合わせると、珍しく好奇心を出してそちらへと向かう。
途中何人かと行き会いながら辿り着いた先には、豪奢な船があった。
そこから艦に搭乗して来たらしい人物が、ナディカやヴォネガと会話している様に、水兵さんは我知らずに見惚れてしまう。
その人物から発せられた人物の名とその人物を呼びに行くようにナディカに言いつけられて驚いたのはそのすぐ後のこと。
マリアンヌは部屋の中でせわしなく針を動かしている。しかし器用なことに、その視線は手元にはなく、サイドテーブルの上の写真立てに注がれていた。写真の中に写っているのはまだもう少し若い――――幼いともいえるマリアンヌ。そして、金色のロングヘアと碧眼を持ち柔和に微笑む一人の女性。
ミリー・グッドナイト。
マリアンヌの人生を支えたといっても過言はない人物だ。
*** *** ***
話はマリアンヌがミネルヴァに搭乗するずっと前に遡る。当時まだ子供だったマリアンヌは、親元を離れ一人(かなり大きいがロダー家の基準では)小さな別邸に住んでいた。仕える使用人は少ない(それでも百人単位)が、そこそこに楽しく暮らしていた。
そんなある日――――。
「新しい使用人?」
ペットの子犬・ルーを撫で回しながらマリアンヌが鸚鵡(おうむ)返しで尋ねると、使用人頭の老婆・ソフィアは深く頷いた。この老婆は口数こそ少ないが真摯な態度で家元を離れたマリアンヌに仕えている。たいした目利きで、この屋敷の使用人は全て彼女が選び抜いた程だ。
その彼女がわざわざ無能な使用人を増やす訳がない。ということは、彼女の眼鏡に適うほど有能な人物が来るということになる。
「分かった。男? 女?」
「若い娘でございます。お嬢様にお目通りを願っておりますが……お会いになりますか?」
わざわざ、という疑問は飲み込んだ。会いたいというならば会ってやったところで問題はない。ないどころか自分のために働くと言ってくれるのだから会って当然だろう。
「どこにいる?」
自分から出向く気満々の幼い主人の言葉に、しかしソフィアは平然とこちらですと促した。この少女がひと時もじっとしていないことなど誰より分かっているのだ。もちろんそれが上に立つ者として必ずしも良いと言う訳でもないということも、この老練の使用人は分かっていた。だが、この少女はこれでいいのだ、とも思っている。
しかし、会いに来られた本人としては気が気でなかったらしい。ソフィアに面接された部屋で待たされていた少女は、突然現れたこの屋敷の主人に驚きのあまり声も出ない様子だ。マリアンヌはそれに明るく笑いかける。
「マリアンヌ・ロダーよ。これからよろしくね」
「ミ、ミリー・グッドナイトです。至らぬ所もあるかと存じますがどうぞよろしくお願いしますっ!!」
慌てて頭を下げると長い金の髪がぴょんと踊った。少し焦りも見えるが、高くも低くもない声が耳に聞き心地よく届いたことに、マリアンヌは満足そうに頷く。
「うん、気に入ったわ。ミリーは今日からあたしの側に控えてね」
「えっ?!」
「主人からの命です」
厳しくはないが有無を言わせない迫力のソフィアの言葉に、恐慌していたミリーは慌てて頭を下げる。やはりこの老婆は長年彼女に仕えているだけのことはある。主人の唐突さに驚く気配すら見せない。もっとも、そういう性格なだけなのかも知れないが、今日来たばかりのミリーにそれを計る手立てはない。
ミリーの了承を得たと分かったマリアンヌは満面の笑みを浮かべてその手を取った。驚いた表情を浮かべるミリーが何ですかと尋ねるよりも早く、その体はマリアンヌに引っ張られて部屋の中から消えている。屋敷内を案内するつもりだとソフィアが小声で教えてやったことが彼女の耳に入ったかどうかは、定かではない。
*** *** ***
ミリーがマリアンヌに仕えるようになってから早一ヶ月以上が経とうとしていたある日、その二人は揃って街に出かけた。手にはたくさんの紙袋。しかしそれは帰りではなく行きの話。帰りにはその手には何もなかった。ではいったい何しに行ったのか、それは数時間前に遡る。
マリアンヌは驚いた顔をして自分の前に積まれた物を見ているミリーを面白そうに眺めていた。ややあって、ようやくミリーが口を開く。
「あの……マリアンヌお嬢様? これは――――?」
指し示すのは足元に積まれた、大きな紙袋。中に無造作に詰め込まれている大量の布も何なのかミリーは聞きたがっているようだ。マリアンヌはそれに一つずつ答えていく。
「全部服よ。街の孤児施設の子達に配るの。狭い所とかもあるから歩きだけど――――大丈夫だよね?」
「体力には自信がありますけど――――どうしてロダー家のお嬢様がこんなことをなさるのですか?」
戸惑い気味の質問に、マリアンヌはあっけらかんと答える。
「あたしの出来ることだからよ。あそこの子達はみ~んなあたしの友達だもの。友達のために出来ることをしてるだけ」
生来駆けずり回るのが好きなマリアンヌには、同じ位にある子供達とは昔から気質が合わなかった。反対に、庶民の子供達とは気兼ねなく付き合うことが出来た。そのためか親元を離れこの地にやって来てからも、いわゆる名家とは関わりを持たず、こうして庶民とばかり交流を持っている。
そんなマリアンヌに父親から注意が再三伝えられているが、マリアンヌは一切それを取り合わなかった。
はっきり言い切ったマリアンヌにミリーは目を見開き、ややあって、微笑んだ。ここ一ヶ月何度も見て来たはずのその笑顔は、その時が初めて心の底からのものであったようにマリアンヌには感じられた。
納得したミリーを伴って街に出かけたのはそのすぐ後。見た感じは非力なミリーがその実マリアンヌよりも力があることに驚かされたのもその時だった。
そして現在、孤児院を全て回り終わり軽くなった両手を振りながら、二人は帰路についていた。傾いた日に照らされたマリアンヌの赤い髪は更に燃えるように輝いている。
本日の成果や友人たちとの会話、やったことを振り返って、二人は楽しく会話しながら歩いていた。しばらくして大きな路地に差し掛かると、馬車の馬蹄が聞こえてくる。それが過ぎるのを待つために立ち止まると、つられて会話も一度が止まった。その隙に、ミリーは素早く口を開く。
「お聞きしてもよろしいですか?」
この一ヶ月で何とかマリアンヌの性格を分かってきたミリーの声はもう以前のように揺れたりはしない。その声にマリアンヌは彼女を見ないまま返事をし、馬車が過ぎ去った道をさっさと横切っていく。ミリーはその後に続いた。
「どうして、ご両親の元から離れてお一人であの広いお屋敷へお入りになられたのです? 寂しくは、ないのですか?」
「もう慣れたよ」
「何故『平気じゃなかったこと』をやろうとなさったんですか?」
矢継ぎ早の質問に、マリアンヌは苦笑する。正直ミリーのことは、芯は強いがはっきりと物事を行うタイプではない、と見ていた。
だがそれは考え直さなければならないようだ。彼女は存外、言いにくいことでも真正面から訊いて来る人物らしい。こんな質問ほかの使用人なら恐ろしくて口にしようともしないだろう。
最初は見目麗しさで気に入ったミリーを内面から好きになったのはこの時であった。
「教えてあげてもいいけどミリーのことも教えてね。ご家族のこととか、あたしの所に来るまでどんなことがあったとか」
「……私の過去なんてきっとつまらないですよ?」
「面白いとかそんなのいいの。あたしはミリーのこと聞きたいんだから」
そう言って笑ったマリアンヌに、ミリーもくすっと笑った。それから、宵闇に包まれ始めた空の切れ端を遠い目で眺める。そのときの横顔に、マリアンヌは一抹の悲しさを覚えたが、それが何なのかを知ることは出来なかったし、それを確かと感じることもまた出来なかった。
「私はここからは遠い田舎で生まれました。村人たちはみんな優しくて、とても温かい村です。でもその土地の領主が有る者有る物奪っていくから、そこは村ぐるみで貧乏なんです。それで、私の村では若い人たちは皆働きに出て、お金を送っています。私達はあの村が大好きだから、たとえどんなに苦しくても頑張り続けるしかないんです。たとえ、どんな仕事をしても――――」
鮮やかな双眸が細まり、小さな唇がきゅっと引き締められる。刹那、その横顔が険しいものと変わったのをマリアンヌは見逃さなかった。何かある、もしくは何かあったと容易に察せたが、敢えて言及せず、あらあらととぼけた声を出す。
「そんなこと聞かされたらお給料上げなくちゃならないわねー」
「えっ、あっ、もっ、申し訳ありませんマリアンヌお嬢様!! 私そんなつもりで言ったんじゃ――――っ!!」
久しぶりに慌てた様子で頭を下げてくるミリーに、マリアンヌはけらけらと笑い声を立てる。
「いいわよぉ、あたしが言えって言ったんだもの。あ、でもお給料に関しては考えとくわね。大丈夫よ、他にも似たような人たくさんいるから」
それがかなりいい意味での『考えておく』であることを悟り、ミリーは恐縮して深々と頭を下げた。マリアンヌはそれにまだ笑っている。
「じゃああたしの番ね。でもあたしの理由はもっと簡単だよ? だって親とかお姉さまと一緒にいたくなかっただけだもん」
あっけらかんと告げたマリアンヌに、ミリーは眉を寄せて首を傾げる。
どういうことですか、唇がそう尋ねようとしたのに先んじて。
「だってお父様もお母様もひどいのよ。いつもいつもお姉さまと比べてばっか。お姉さまが出来過ぎてるだけなのにあたしのこと駄目な子駄目な子、って……流石のあたしも傷付くわよ」
まくし立てると、ふん、と拗ねた様にそっぽを向いてしまった。
「……マリアンヌお嬢様は、その事について何も仰らなかったんですか?」
「言ってない。……って言うより、実家に居た時にお父様達に向かって言いたいこと言った記憶もないなぁ……」
薄ぼんやりとした空に向かって吐き出した言葉に答える声はなかった。
薄暗くなった道の向こうから、迎えに出て来たソフィアが照らす煌々としたライトの光にきっかけが奪われてしまったから。
自室の柔らかい椅子に座りながら、マリアンヌは裁縫を勤しんでいた。『貴族の子女のやることではない』とよく父や母に怒られていたが、怒られる度に、意固地になって続けてきた。その反抗心のおかげで今では服の一着や二着余裕で作れるようになった。
戸を叩く音がする。
誰かと聞かずともその主を知っているマリアンヌは手元から顔を上げずに軽く答えて迎える。
「……お裁縫、ですか?」
驚いた声を出したのは予想に反さずお茶を運んできたミリーだ。マリアンヌはまあねとなんてことのない様子で頷く。
「ミリーも何てことやってるんだって言う?」
今のところ彼女の趣味を理解してくれているのはソフィアだけだ。他は両親と同じ事を言うか、または自分の仕事がなくなると嘆く仕事熱心な者だけだ。マリアンヌはそれ以外の人種は知らないし、ソフィアが変わってるのだと理解もしていた。しかし。
「良い事です。人がやって当然なことなんて何もないですからね、そういうことを分かっていらっしゃるなんて流石はマリアンヌお嬢様です」
カップに紅茶を注ぎながら、ミリーは嬉しそうに答える。むしろ、それが当然であるかのような口ぶりだ。
「そもそも貴族の方々は御自分で何もしなさ過ぎです。下の者がやるはずだと思い込んで……もしかして、先日のお洋服は全部お嬢様が?」
気づいた様にミリーが顔を上げる。歯に絹を着せない彼女の言葉に呆気に取られていたマリアンヌはそのままで頷く。だがすぐに、あははと乾いた笑いを立てた。
「そっ、かぁ、ミリーは貴族が嫌いなんだね。あは、あたしも実は嫌われちゃってたりして?」
軽口で言ったものの内心は震えている。この口調ではいと答えられるのは何よりも怖かった。しかし。
「いいえ全く」
返答は、いともあっさりとしたものだった。だが、硬化しかけていたマリアンヌの心を和らげるには十分でもあった。
「私はマリアンヌお嬢様のこと大好きですよ。だって全然貴族であること鼻にかけないじゃないですか。私が最初にこのお屋敷に来た時もそうです。普通なら私がお会いに行くものをわざわざご自分でいらっしゃるんですもの。それに、ご自分のことはご自分でやろうとなさいますし、それなのに私共の仕事がなくならないようにしっかり配慮なさってくださってるし、庶民の子供たちとも普通に接してくださいますし、ご自分からお裁縫までなさるし、それに――――」
「ちょっ、ちょっと待ったミリー! ストップストップ。もう分かったから!!」
そういったマリアンヌの口元は緩んでしまりがなかった。明らかに喜んでいる。が、これ以上は流石に恥ずかしいのだろう。……それにしても。
(……嬉しいー~~!)
人に褒められるという行為を、マリアンヌは記憶にある限りされたことがなかった。
マリアンヌには、アンナという才色兼備の姉がいる。アンナはとにかく優秀で、貴族社会の中でも並ぶ者がいないほどの気品に満ちている。そんな出来た子に注がれる両親の愛情も期待も、生半可のものではない。そのため、そのしわ寄せは確かにマリアンヌに来た。
マリアンヌは決して駄目な子ではない。だが、姉と比肩し得る才もまた、持ち合わせてはいなかったのだ。
そのため、こう言ってもらう事も、なかった。
マリアンヌは隣に来たミリーの袖をぎゅっと掴み、その顔を上目遣いに見上げる。
「ミリーはさ、ミリーは、あたしのこと好き?」
先に言われた言葉。もう一度聴きたいと思ったのは子供のわがままだ。だがマリアンヌは今までそう言ってもらったことが一度たりとも無い。両親は決してそう口にすることはなかったし、町の子供達もわざわざ言ってくることはなかった。代わりに行動で示すから。ソフィアも同じだ。彼女も一見冷めているように見える行動に愛情が感じられる。だがマリアンヌは言葉として聞きたかったのだ。
その心を解してくれたのか、ミリーは微笑んだ。
ふわりとスカートを揺らせてマリアンヌの前に膝をついて座り、金の髪を踊らせ、蒼い双眸を細め、愛らしく微笑んだ。
「私は、元気で明るくて優しいマリアンヌお嬢様が大好きですよ。ご両親にも町の子供達にもソフィア様にも負けないぐらい、大好きです」
微笑んだミリーの表情は温かかった。マリアンヌもそれにつられ、また満足したように、微笑み返す。
その時、部屋の外から使用人の誰かが声をかけてきた。ミリーを呼んでいる。どうやら郵便物の話らしい。
一礼して立ち上がったミリーの背を目で追って、マリアンヌは繕い物の最後の糸を通す。完成したのはピンクのキャミソール。薄い生地で出来ている下着用だ。裂け目などがないのを確認し、机の上に置く。そして、用意された紅茶に口をつける。
すると、まるで狙い済ませたように風が吹き抜けた。ミリーが扉を開けて風が通り抜けたのだ。
影響を受けたのはマリアンヌではなく、今完成したばかりのキャミソール。軽い生地が裏目に出て、開いていた窓から外へと流れて行ってしまった。
慌てて窓辺に寄ったマリアンヌは、すぐにそれを見つけることに成功した。窓のすぐ手前の木の枝に引っかかっている。
これならすぐに取れる。安堵し、窓枠に足をかけた。だがそれは予想よりも遠い所にあり、腕だけ伸ばしてもまだ届かない。困ったと感じるが、諦めずに今度は体ごと伸ばしてみる。そうすると、指先に布が掠った。
(もうちょっと……)
更に体を伸ばす。だが、それがまずかった。
「キャッ……!!」
不安定な姿勢のためにバランスは崩れ易かった。
確かに布を掴んだ瞬間、マリアンヌの体は傾いていた。ここは二階である。この上にさらに続く三階四階よりはずっとましとはいえ、高いことには変わりない。遠くに見える地面にマリアンヌはぞっと鳥肌を立てる。
聞こえたのは使用人の悲鳴。
近付いて来るのは地面との対面の時。
マリアンヌは、恐怖に勝てずに我知らず目を強くつぶり悲鳴を上げていた。
だが。
真っ暗になった世界の中、マリアンヌを包み込んだぬくもりがあった。
そしてそのまま、途中何かにぶつかりながらも目を開けようとする暇もなく地面へと激突する。痛みはあったが予想より余程少ない。何故と恐る恐る目を開けたマリアンヌの目に飛び込んできたのは、厳しく歪められた碧眼と、乱れた金の髪。その名を呼ぶことに一瞬迷ったマリアンヌに、彼女は痛みを堪えた様子で微笑んだ。
「大丈夫ですか? マリアンヌお嬢様?」
天使がいるとしたらきっとこんな人なんだろう。
自分の方がよほど痛い思いをしただろうに、それでもなお笑いかけてくる女性に向けて、呆然としながらマリアンヌはただそう思った。ややあって、首を思い切り振って乱暴に正体を取り戻す。
「あたしは大丈夫よっ、ミリーが庇ってくれたもの。ミリーは? ミリーは大丈夫なの?!」
下敷きにしてしまっていたミリーの肩口を掴みぐいっと上半身を起こす。ぽかんと口を開けてミリーはマリアンヌを見つめたが、少しもしないうちに笑い出した。本気で楽しそうな笑い声に今度はマリアンヌがぽかんとして口を開けっ放しにする。
「凄いマリアンヌお嬢様。力持ちなんですねぇ」
貴族のお嬢様らしくない、と笑い声の合間から言葉がこぼれた。
平気そうだと判断すると、マリアンヌも安心したように笑う。判断と行動の速さに感嘆したと素直に述べれば、ミリーは胸を張り、少しおどけた様子で。
「田舎の子供は決断力と度胸がいいんです。それに、身軽なんですよ」
軽口の自慢に、二人で吹き出す。その瞬間、冷水がぶちまけられた。
「何がおかしいのです」
怒らず慌てず抑揚のない声は、いつの間にかそこに立っていたソフィアのものだった。主人に対しては心臓も鍛えられたミリーだが、この老婆に逆らう気にはなれないらしい。横で見ていて面白いくらいに青くなった。もっとも、マリアンヌも人のことが言えないほど青くなっているが。
怒鳴られるよりも彼女の沈黙のお説教には恐怖があるのだ。
だが、ソフィアはちらりとマリアンヌとミリーを見ると、すぐに踵を返してしまった。驚く二人を他所に、ソフィアは揺らがずに真っ直ぐ立っている。ミリーがマリアンヌに肘でつつかれ、おどおどと声をかけようとした。すると。
「ミリー」
後ろ向きに呼ばれてミリーが引きつった返事をする。
「医学の心得があると言ってましたね? お嬢様のお怪我を手当てして差し上げなさい。それからお嬢様」
また引きつった声で返答したミリーとほぼ同時に、マリアンヌも同様の声で何かと尋ねた。
「後でお話を聞かせていただきますので、お部屋にいらっしゃってくださいませ」
言い残し、ソフィアは年を感じさせないほどきびきびとした歩き方で屋敷の中に引き上げていく。その背が見えなくなったところで、少女二人は大きく息を吐いた。
「……ソフィアって――――」
ぼそりとマリアンヌが呟くと、ミリーはそちらを向いてコクリと小さく頷いた。
「照れ屋よねぇ……」
「照れ屋ですよねぇ……」
重なった台詞。
二人の少女はしっかりと見ていたのだ。老婆の息が多少上がっていたのを。
幼い主人の悲鳴に屋敷の中から飛んで来たのだ。
そう思ったからこそ、二人は慌てた。マリアンヌは要らぬ心配をかけてしまったと。ミリーは老婆の大切な少女を危険に晒してしまったと。それぞれ自己嫌悪と来るだろう無言の叱責に恐怖した。だから、彼女が踵を翻したとき何かと驚いたものだ。
これは単なる憶測だが、彼女は安心したのではないだろうか。どんなことが起こったのかと気が気でない中、笑い合う少女たちの姿を見て、自分でも驚くほど安心したのではないだろうか。であればあの時彼女は――――。
「笑ってたかな? 泣いてたかな?」
好奇心に満ちた表情でマリアンヌが語りかけるとミリーは不謹慎なとたしなめる。だが、そういう彼女の顔も笑いが収められないことに難儀しているように見えた。
しばらくソフィアの表情について会話していた二人だが、先ほど落ちた部屋の窓から使用人が声をかけてきたのを機に、屋敷の中へと引き上げた。
「はい、終わりましたよ」
ポン、と白い包帯に巻かれた腕を叩かれる。全く痛くないのはちょっと切れただけなのに大げさな処置をされただけだから。それに対しての文句は、念には念をです、と軽く流されて終わってしまった。
「ミリー凄いね。手当て上手―」
隣に座る女性に向かって感嘆して呟く。
「田舎ではむしろ怪我をするのが常識でしたから……お嬢様はお出来になりませんの?」
自慢ではなく純粋な質問。マリアンヌが素直に頷くと、ミリーは使った物を片付けながら。
「では覚えてください。覚えて邪魔になることはありませんから」
こともなげに言ってのける。マリアンヌはしばし沈黙し、にっと笑った。
「じゃあやってみる」
言うや否や大きな正方形の絆創膏をミリーの右手にぺたりと張る。張られてから、ようやく自分も怪我をしていたことに気付いた様であった。
「そうだっ、早く治るおまじないもしてあげるね?」
その彼女の手を取って、マリアンヌはどこからか取り出したペンで絆創膏に何か描いていく。ペン先が離れて姿を現せたのは、可愛らしくデフォルメされた彼女自身の似顔絵。
それに、ミリーはぽやっと見入る。ふわりと赤くなった頬から喜んでいるのが伝わってきて、マリアンヌも嬉しそうに笑った。しかしややあって、純粋な笑顔が悪戯な光を帯びる。
「と・こ・ろ・で」
ニヤーッと笑うマリアンヌにミリーは少し後退りながら微笑む。顔の横では冷や汗がタラリ……。
「ミリーってば他は完璧だけど実は胸ちっちゃいよねぇ~?」
からかうような視線に、ミリーは赤くなって両腕で体を匿う。
「放っといてくださいっ! ……もう、マリアンヌお嬢様だって人のこと言えないじゃないですか」
「おほほほほ~♫ あたくしはまだ成長途中ですもの。心配には及びませんことでしてよ~」
おかしなお嬢様言葉で高らかに笑う女主人に、ミリーはムーッと膨れて拗ねた顔をする。
しかし、すぐに愛らしい笑顔となり、グイとマリアンヌに近付いた。
「お嬢様、成長と肥満は違いましてよ?」
「うっ!」
痛い所を突かれて高笑いが止まる。
「少しお太りになられましたよね?」
「ううっ!」
今度はマリアンヌが後ずさる。
「毎晩毎晩お台所に忍び込んでつまみ食いなさっているの、ミリーはしっかり知っていますからね」
「な、なんでばれてるのっ?!」
引きつった声を立ててもミリーは可憐な笑い声を立てるだけ。
「今夜からお部屋を出ることは禁止します」
「えぇー!」
「我慢なさってください。これもお嬢様のためですから」
機嫌よさ気に言われては単にやり返されているだけという感が否めない。まだ唸っていると、ピシッと指先を突きつけられる。
「今夜から遅くに部屋の外でお姿を拝見したらソフィア様に言いつけちゃいますからね」
最高の脅し文句だ。
ソフィアの名を出されてはマリアンヌに屈する以外の手はない。
諦めて、がくりとうなだれた。それを見届けて、ミリーはお茶を入れなおしてきますと部屋を立ち去った。それと入れ替わりに、使用人の女性が足音を立てないように入ってきた。後ろをちらちら気にしながらやってきた使用人の表情は嬉々としている。
記憶違いでなければ、彼女は先ほどミリーに郵便を持ってきた人のはずだ。彼女のわくわくとした顔を見て、マリアンヌは準備OKと言わんばかりに手を傍らに付けて耳を向ける。使用人はこそっと尋ねた。
「マリアンヌ様、ミリーさんの恋人ってどんな方かご存知ですか?」
マリアンヌは尋ねられた内容に目を見開いた。
「ミリーって恋人いるの?!」
今まで聞いたこともなかった。驚きと寂しさが同時に襲ってきたのは言うまでもない。
「はい、ぜぇったいいますよ! だって今回で同じ人からから五通目ですよ? それに、さっきミリーさんがマリアンヌ様を助けるために飛び出したときに手紙に放り出したんですよ。で、見えたんですけどね、『求めしもの、今宵こそ逢瀬果たさん』、って。かっこいいですよねぇ」
ほぅ、と息を吐いてから、慌てて、もちろんマリアンヌが無事なのを確かめてからだと付け足した。
マリアンヌはふむと指を顎に当てる。
「ミリーめ、さては恋人と会うために私を部屋に押し込めたなぁ」
もとの原因が自分にあることはすっかり忘れて言い切る。その神経と心臓には感嘆してしまう。
(よっし、絶対顔見てやろーっと)
マリアンヌが決意するのと使用人が仕事に戻るのとミリーがお茶を持って戻ってくるのは同時であった。
夜。
ミリーの見回りをかわしてからしばらくが経つ。マリアンヌは部屋を抜け出しその姿を捜し歩いていた。だが、外と面した所でも、ミリーの部屋でもそれを見出すことは適わなかった。気になったのは、使用人用の制服だけがたたまれてポツンとベッドの上に置かれていたことだ。
だがそれもすぐに振り払われることとなる。恋人と会うのに色気のない使用人の服などないだろう。そう思ったから。
*** *** ***
今度はお屋敷の奥へ向かってみた。途中鳴った時計の音のおかげで午前二時というとんでもなく遅い時間になっているのが分かった。だが少女の好奇心は睡魔を返り討ちにしなおも足取り軽やかに暗い通路を進んで行く。
その時。
カタッ
「ん?」
小さな物音がした。
何と思うより早く、頭に浮かんだのは金の髪の乙女の姿。マリアンヌはにっと笑って音の聞こえてきた方向へと早足に近づく。しかし、部屋に近付いて気付けば、そこは金庫のある部屋。
(変な所選ぶわねぇ……)
確かにめったに誰も近付かない。来て、せいぜい財産管理をしているソフィアくらいだ。
だがこんなところにいては下手をすると誤解されてしまう。こんな夜中だが、未来のもしもは予測不可能なのだから。
マリアンヌは邪魔を覚悟で忠告してやることにした。
「ミリー? こんな所じゃ見つかると――――」
言葉が途切れたのは、大きな窓から差し込んだ満月の光を受けていた人物がはっとして振り返ったから。一つにまとめられた金の長髪がそれと共に踊る。反射した月の光と表情と共に強張っていく蒼い双眸に時を忘れたのは一瞬。
再び『ミリー』と呼べなかったのは、姿が彼女であるに関わらずその立ち居振る舞いから伝わる雰囲気がまるで違ったから。
ミリーがたおやかな花の様であるならば、目の前にいる人物は立草の様に凛としている。受ける印象は、男性のものだ――――。
だがマリアンヌは迷っていた。目の前の人物にミリーがちらちらと重なるからだ。対峙する人物も、なぜかマリアンヌに戸惑っているようだ。危害を加えようとも逃げようともしない。それどころか顔を隠そうとすらしない。驚きが強過ぎて体が固まってしまっているような感じだ。
奇妙な沈黙が続く。
その間、マリアンヌはずっと目の前の人物を観察していた。足元まで一通り見終わってから、疑問と迷いを振り払う。そして、『彼』の驚きの目線を受けながらも、『彼』に近付いて行った。
「――――ッ止まれ」
やや低い声。言われた通りにマリアンヌは止まる。だが、脅されたからではない。ある事を確認するために来る必要があった距離まで来たからだ。
そして、目的を確認し、確信した。マリアンヌは、ゆっくりと口を開く。
「男の人の格好なんてしてどうしたの? ミリー」
疑わない声に、しかし『彼』は首を振る。だがそれに同様に首を振り返す。
「違わないわ。もし違うなら手にそんなものあるわけないもの」
いつもの調子で言われ、『彼』はしまったという風に右手を握った。マリアンヌはふっと笑う。
「どじねミリー。私が張った絆創膏、張りっぱなしじゃない」
指差したのは、ほっそりとした手。その甲に張ってあるのは、大きな絆創膏。描かれているのはマリアンヌの似顔絵。昼間『ミリー・グッドナイト』に施したそれが、別人だという『彼』の手にあるはずがなし。しかも、こんな綺麗なままで。
マリアンヌがじっと疑いなく見つめると、『彼』はふっと頬を緩めた。眉が寄せられ、今にも泣き出しそうな表情をしている。
「……だから、今夜は出歩かないでくださいって申し上げたんです」
やはり少し低い声で、しかし『彼』は『ミリー』として言葉を紡ぐ。
「はがし忘れたんじゃないです。――――はがせなかったんですよ」
右手を少し上げ、甲を優しい双眸で見つめる『ミリー』。マリアンヌはその顔をじっと見つめ続ける。
「男の格好をして、っておっしゃっていましたけど、でも、こちらが本当ですから。女の方がどこの貴族も油断するから……ああ、私なんで手袋忘れたんでしょうね? こんなこと初めてですよ」
自嘲気味に笑い、一つにまとめて後ろに垂らしていた髪をつかみもう片方の手で胸の辺りに触れる。タイトな服を着ているのに、そこにあるべき突起はない。少なくともあの服なら判断出来るほどあるのは今日確認した。
『彼』が男性であると再認識すると同時に、泥棒の常習犯であることが察せられる。
「以前お話しましたよね、私の村のこと。お金を送ってるのは本当ですが、一番の目的はあの土地を買い取ることです」
こんっ、と拳で金属の戸を叩く。すでに防犯システムは切られているらしい。鳴るはずのけたたましい警報は鳴らない。手際の良さは……慣れ、だろう。
「そのためなら――――これも、悪いことだなんて思いません。だって貴族なんて私腹を肥やすだけの嫌な連中ばっかりじゃないですか。良心も痛みませんし、見限るのなんて簡単でした」
反論が出来ないほどに、それは憎しみがこもった言葉。
きっと『彼女』が語らなかった過去には想像出来ないほどの苦しみがあったのだろう。優しい声を憎しみで凝り固められるほどの何かが。
(……私には、何も、言えない……)
祖父の代からの成り上がりとはいえ貴族の一人であるマリアンヌに、彼に反論は出来なかった。
「なのに」
不意に『ミリー』の声が曇る。意識ははっきりしていたが焦点が定かではなかったマリアンヌはそのとき再びしっかりと『ミリー』の姿を捉えた。顔は金庫に向けられているが、目の端に確かに浮かんでいる雫を見逃すほどマリアンヌの目は悪くない。
『ミリー』は震える声で続ける。
「ここに来るんじゃなかった。こんな暖かい場所、こんな暖かい人達の所、こんな―――」
ゆっくりと、視線が交わる。
『ミリー』は、涙をぽろぽろと零しながら微笑んだ。
「こんな、お優しくて、破天荒なお嬢様がいらっしゃる所なんて、来るんじゃなかった……ッ!!」
流れていく涙の粒。
流れていく涙の粒。
マリアンヌは、ただ見つめるだけ。双眸が満月の光を受けて輝く。
「こんな楽しい時間、欲しくなかった。マ、マリアンヌお嬢様のせいですからね……!? 本当はある程度過ごしたらとっとと財産奪って逃げるつもりだったのに、もっといたい、もっといたい、もっと一緒にいたい、って思わせるから。だから、仲間の手紙を四回も無視して、『逢瀬』を果たすのも流しちゃったんですから!」
四回……では例の『恋人からの手紙』というのは全て泥棒の、いや、村の仲間からだったということになる。とすると『逢瀬』というのは盗み出す合図とでも言うのだろうか。
そうするともうずいぶん前から計画は実行可能であったはずだ。それが今日まで延びたの、『ミリー』の躊躇(ためら)いゆえ。
ああ他は何を話しましょうか、顔をわずかに上に向け、『ミリー』は笑いながら投げ出すように言った。あきらめたような態度。もう終わりだと、覚悟しているのだろ。
「ミリー」
久方ぶりと表現してもなんら遜色のないほどの間を空けて、マリアンヌが口を開く。『ミリー』はびくりと体を強張らせるが、すぐに力なく微笑んで返事をした。
曇った白い花に、マリアンヌは近付く。一、二歩の間を空けて佇む彼女に『ミリー』は困惑したようだ。その『ミリー』に向かって、マリアンヌは堂々と口を開く。
「名乗りなさい」
きっぱりと言い切った姿が
凛と背筋を伸ばした姿が
差し込む月明かりの下でキッと顔を上げた姿が
――――かつてないほど、気高く咲き誇った。
長く側にあった『ミリー』だが、その姿には芯から気圧される。
ややあって、『彼』は再び微笑んだ。
「ミリアルド。ミリアルド・ミッドナイトです」
だから『ミリー・グッドナイト』、か。なかなか安直ではあるが、それ故に逆に偽名の役は果たせるわけだ。
金庫を片手で開けながらマリアンヌは納得したように数度頷く。一方の『ミリー』……ミリアルドは、驚いた顔をしていた。
その彼に、マリアンヌは金庫から取り出した大きな袋を三つ、無造作に投げ渡す。咄嗟に受け取って、その感触と重さに閉口するミリアルドに、マリアンヌはあげると軽く言った。慌てるのはもちろん貰った側だ。
「こ、こんなにいただけませんっ!」
震える手の中の袋の中には彼が一生手にすることなどないほどの大金が入っている。いくら、と断定することは出来ないが、少なくとも普通の人が生きていくには十分すぎることは間違いない。
お返しします、言いかけたその時、太陽が笑った。
「お馬鹿なこと言うんじゃないわよ。『こんなに』? 『これっぽっち』の間違いでしょ?それとも」
ぽかんとするミリアルドに、マリアンヌは試すような笑いを浮かべる。
「この(・・)マリアンヌ・ロダー様の命がこれっぽっちの金額にも及ばないなんて思っちゃってるのかしら? ミ・リ・ィ・は」
「めめ、滅相もございません! 足りないくらいです、ハイ!! ……あ」
脅しかけるような言葉に、すでに習慣のように首と手を振ってから、ミリアルドは自分の行動と浮かび上がっている気分に間の抜けた声を出す。
マリアンヌはしたり顔で笑っている。そこでようやく彼は気づいた。彼女は、自分を見逃すつもりだ、と。
「マ、マリ――――!」
「ミリー・グッドナイトは」
金庫が閉められる。ガチャっという音が響いた。
「二階から落ちたマリアンヌ・ロダーを身を挺して救ったために負傷。その治療費と恩賞を貰い村へと帰った。そうよね?」
顔を向けてきたマリアンヌの目には異論は許さないと強く浮かんでいる。もとより完全にミリアルドに有利な申し出。断ろうとしたのは単なる戸惑い。だがこれ以上断る気はなかった。必要以上の拒否を、この少女が嫌うのを知っていたからだ。
「――――はい。確かです」
袋を抱きしめ、ミリアルドは聞き慣れた『ミリー』の声で頭を下げる。マリアンヌは小さくうんと呟くと、早く去るようにと手で指示した。ミリアルドも小声で応じ、部屋の出入り口に足向ける。が、すぐに振り返った。
「大好きですよ、マリアンヌお嬢様」
『ミリー』が、笑う。
「私は、元気で明るいマリアンヌお嬢様が大好きです。でも、自分の言いたい事が素直に言えて、自分に制限をつけないようになればもっと好きになります」
『思いを飲み込まなくてもいいんですよ』
笑顔から伝わる思い。『ミリー』は繰り返す。
「大好きですよ、マリアンヌお嬢様。本当に、本当に――――っ」
金の髪をなびかせ、潤んだ蒼い双眸を細め、愛らしく微笑んだ『ミリー』に、マリアンヌも微笑みで返す。
『私も大好きだよ』
それを機に、目を深く瞑る。
次に目を開けた時、ミリアルドの姿はなかった。
暗闇に、その名を呼ぶ少女の声が解けて消える。その頬を伝っていく幾粒もの涙を知っているのは、夜空に浮かぶまるい満月だけだった。
翌日ミリー・グッドナイトは一枚の書置きを残して姿を消した。それと同時に金庫から大量の金がなくなっている事に気づいているはずのソフィアは、マリアンヌの顔をじっと見ただけで何も言わなかった。
それからマリアンヌが看護学校に入学するのはこれより一年の後。
それまでの間に、『ミリー・グッドナイト』、『ミリアルド・ミッドナイト』の姿と名が、マリアンヌの目や耳に入ることはなかった。
それから数年経ち、看護学校を卒業。すぐにミネルヴァの搭乗員となり海軍の一員となった。そしてついこの間、『彼』の面影のある少年――――水兵さんが同じくミネルヴァの搭乗員となった。
顔かたちが似ているわけでも、声が似ているわけでも、性格が似ているわけでもない。ただ、誇らしげな金髪が。ただ、深い碧眼が。在りし日の姿を思い起こすから――――。
だから、ついつい少女の格好をさせてしまう。そうすると、久しく会えないでいる『彼女』が側にいるような気がするから。
トントン
控えめなノックの音。
いつしか止まっていた手に目をやってから、扉に向かって返事をした。そろそろと入ってきたのは水兵さん。どうしたの、と尋ねると客だと告げられた。それはまたこんな所までご苦労なことだ。
「誰?」
見当もつかない訪問者の素性を尋ねるが、水兵さんは眉を困ったように寄せてかすかに首を振った。どうやら知らないらしい。
「……えっと、金髪で、碧眼の、綺麗な人だったよ……」
彼なりの精一杯の努力を以って特徴を挙げてくれた。
それは彼にも当てはまる外様。どこにでもある形容詞。
それでも、つい先ほどまでその人物を思い出していた身としてはそれで十分だった。礼も半ばに部屋を飛び出す。持っていた繕い物は水兵さん押し付けた気がする。定かでないのは気持ちばかり外へ先走っていたから。
心臓がひどく高鳴っている。
きっと周りから見たらとんでもない形相で走っているに違いない。けど構わなかった。
違うという不安は一切ない。あるのは間違いないという確信。
通路を飛び出す。
吹き抜けた潮風が髪を煽った。一度目を瞑ってから、開く。
視界に入ったのは人々に囲まれているたおやかな白い花。「彼女」は音に気付いたのか上を見上げ、微笑んだ。変わらない笑顔が向けられ、ジワリと涙が浮かぶ。
その人は
柔らかいスカートをはためかせ
金色の綺麗な髪を揺らし
蒼い双眸を細め
愛らしく微笑む。
そして言うの――――
「マリアンヌお嬢様!」
初めて会った時と同じ声が、変わらない声音で呼んでくる。
高いことなんて気にせずに、「彼女」が差し出してくれている手に向かって飛び降りる。悲鳴を上げたのは艦の仲間達。だが心配は無用。『彼』は絶対揺るがない。確信しているから、恐れはない。
風に切られて涙が後ろに流れて消えていく。
「ミリーーッ!!」
『私はマリアンヌお嬢様が大好きですよ』
って――――。
ミリアルドはあの後村とその土地を買い取り自治権を手にしたという。そして今は、なぜかまた、ロダー家に仕えているらしい。もちろん、『ミリー・グッドナイト』として……。
理由を尋ねると、再び働いているのは村の維持費のためだという。また「ミリー」になったのは、一度雇われたみであれば雇ってもらいやすいかららしい。
驚いたことに、その際口を利いてくれたのはソフィアだという。味方してくれていることに間違いない上にさりげなくフォローしてくれているのだとも言う。今回もマリアンヌをずっと気にしていた『ミリー』をどうでもよい用事を言いつけてここまで来させてくれたのも彼女らしい。
ともすれば『ミリー』が男であると気付いているかもしれない老婆の考えは今でも図ることが出来ない。
ちなみに『ミリー』が艦でのマリアンヌの在り方を見て述べた感想は
「お嬢様、ご立派になられて……っ!」
と、感激した一言。
ずれた発言に艦員一同が力が抜けてしまったのはまた別のお話。