ロドリグ回想編

設定は旧設定の方になります。

 もうずっと昔のこと。


『ねぇ、約束してくれますか? もし僕みたいに苦しんで困っている人がいたら、僕にしてくれたみたいに、助けてくれるって――――』


 別れ際にその人が言った言葉が、ずっと心に残っていた。

 ねぇ、僕はあなたとの約束守れましたよ?

 いつか会えたら、その時の話聞いてくれるでしょうか。

 最初に言いますから。

『約束、守りましたよ』 って――――。

第一話

『医学の名門エリオット家』

 その肩書きはいつでも重くのしかかってきた。次男、という事はこの際問題ではなかっただろう。

 単に兄があまりに出来が良かったから。比べられる毎日に、その重圧に耐えられなかっただけに過ぎない。

 そんな中で出来たのは、逃げ出さず、ただ曖昧(あいまい)に笑っていることだけだった。

 けれどそんなことでは駄目だと教えてくれた人がいる。あの人にあの時出会えた奇跡は決して忘れない。

 それは、まだ子供の頃のこと――――。


*** *** ***


 緑に囲まれた別館。そこは敬愛する祖父母に与えられた屋敷だった。ロドリグは暇を見つけてはそこに訪れ祖父と話をする。

 そしてその日もまた、勉強の合間を縫って祖父の屋敷を訪ねて行く最中だった。

 その彼の足を止めたのは、茂みの向こうから聞こえてきた小さなうめき声。

 怖くないわけではなかった。しかし彼の身の内に流れる医者としての血が、考えるより早く身体を動かす。

「誰かいるんですか――――?」

 茂みを掻き分けながら、ロドリグは恐る恐ると声をかけた。しかし返答はない。ロドリグは少し足を止める。しかしすぐに首を振り、決心したように再度歩き出した。そして、どきどきしながら更に先に進んだその先で、思いもしなかった光景に息を呑むことになる。

「人……っ! あのっ、大丈夫ですか!?」

 視線の先で倒れていたのはロドリグと同年代ほどの金の髪をしたヒトだった。その人物は、体中に傷を作り泥にまみれ、見るも無残な状態だった。

「傷が化膿しかけてる……早く手当てしないと」

 そう思ったロドリグの行動は早かった。その細身の身体を背負うと、要らぬ振動がかからぬように細心の注意を払いながら、それでも急ぎ足で祖父の屋敷へと向かう。

(……この人、男性ですね)

 背中に当たる感触でそう判断した。顔つきだけでは、どうも少女めいていて判断しかねていたのだ。まぁどちらにしても助けるので関係ないのだが。


「――――ふう。これで一安心、かな……?」

 ミイラ男よろしく包帯でぐるぐる巻きになった少年を見下ろし、ロドリグは安堵の溜め息をつく。

 そして優しい笑みを浮かべて少年の頭を軽く一撫ですると、すっかり泥だらけになってしまった布と水を持って部屋から出て行った。

 広間に出るとすぐに、大きな椅子に腰をかけて本を読んでいた祖父・エドヴァルト(エド)が話してくる。

「ロドリグ、あの子は大丈夫かい?」

「はい。見た目よりは傷も深くありませんでしたし、化膿しかけていた箇所も二・三日消毒を続ければ」

 続く言葉を笑顔に変えた孫に向けて、エドもまた優しく笑いかける。

「お前も随分慣れてきた。あの子の治療をしてるお前の手つきを見たらやることがないと心底安心したよ」

 立派になったものだ。そう笑ってくれる祖父に、ロドリグは曖昧に笑い返すことしか出来なった。

 果たして、祖父が言うほど自分はまともなのだろうか。兄ほど両親に期待されず、よくやったと声をかけられることもない自分に、価値などあるのだろうか。

 泥水に映る自分の姿を見つめ、ロドリグは泣き笑いのような表情を浮かべる。祖父は、その姿を静かに見つめていた。

 するとその時、隣の――少年の寝ている部屋から大きな物音がする。ロドリグは手にしていた桶を側の机の上に置きすぐに身を翻してそちらに引き返した。


 部屋に入るとすぐに少年の姿が目に入った。どうやら目を覚ました瞬間の見慣れぬ景色に驚いたらしい。床に片膝を付いて周囲に警戒している。

 ロドリグはその彼に駆け寄ると、優しく声をかけた。

「大丈夫ですか? さっき治療したばかりだからまだ寝ててください」

「――あの、ここは――――?」

 少年が戸惑ったように尋ねてきた。声に剣呑な響きがないのは、現れたのが人畜無害そうな少年だからだろう。ロドリグはその前に両膝を揃えると柔らかく微笑みかける。そして、ゆっくりと分かりやすく、この場所と彼の状況、そして自分の素性を話した。

「そ、ですか……それはご迷惑をおかけしてしまって申し訳ありません。お礼をしたいんですけど、この通り。僕何も持ってないんです――――」

 肩を竦めて両手を広げ、何も持っていないことの真実を強調する少年に、ロドリグは慌てて両手を振る。

「そんな! いいんですよ別に。傷付いて困っている人を助けるのが僕達医者の仕事なんですから。ね?」

 宥めようとして告げた言葉に少年は思ったよりも反応を示した。驚いたように軽く目を見開き、信じられないものでも見るかのような顔をしたのだ。

 それに戸惑ったロドリグに、少年は先と違って険のある声で責め立てるように言葉を紡ぐ。

「医者だから、暴利を貪(むさぼ)ろうとするんじゃないんですか? 医者にしか病人や怪我人を治せないからと足元を見て」

 刃のような鋭さを映した蒼い双眸がロドリグを映し出す。が、次の瞬間それは驚きに緩み、代わりに戸惑いが前面に押し出された。無理もない。

 少年の目の中で、ロドリグは泣いているのだから。

「あ、あの、君――――」

「――――すみません」

 言い訳しようとした少年の声を、ロドリグの痛切な声が制する。少年はそれに押され続く言葉の全てを飲み込んでしまった。

「あなたの周りには、そんな医者しかいなかったんですね……僕、同じ医者を志す者として、恥ずかしいです――――本当にごめんなさい……っ」

 言うや否や深く頭を下げたロドリグに少年も慌てた。両手でその頬を挟むと、ぐっと顔を上向けさせる。見た目に反する少年の力の強さとその行動に、ロドリグは目をぱちくりさせた。

「ごめんなさい。君はおうちに無断侵入していた僕をこうして助けてくれたのに。恥ずかしいことをしたのは僕でした。本当にごめんなさい。それと」

 細い指がロドリグの頬を流れる涙をそっと掬う。

「助けてくれてありがとう。僕はアルドと申します」

 名乗ると、アルドは男性にしておくにはもったいないほどの愛らしさで微笑んだ。その笑みに先程までの剣呑さが完全に消えたのを見て、ロドリグは嬉しそうに笑い返す。涙は、もう止まっていた。

「どういたしまして。それじゃあアルドさん、もう少し寝ていてくださいね。まだ動いちゃ駄目ですよ」

 決して厳しくはないが逆らいがたいその指示に、アルドは苦笑すると、素直にベッドに戻る。それを見届けてから、ロドリグは再び部屋を出た。

 最後にアルドが向けた、剣呑と安穏の入り混じった複雑な視線に気付くことなく―――― 。

第二話

 アルドを拾ってから早くも四日が経った。一番ひどかった傷もほとんど治り、祖父からは付き添いがあれば動くことの許可も出るようになった。

 そしてその日も、ロドリグは祖父のお許しを得てアルドをつれて庭の散歩に出ていた。


*** *** ***


「いー天気ですね。お散歩日和ですよ」

「そーですねぇ。ここのお庭は広いからずっと歩いていても飽きないですしね」

 そんなやり取りから始まった、まったりとした会話をしながら広い庭の中をあてどなく歩き回る。お互いにぼんやりとしていたのか、いつのまにかエドの屋敷の庭から本館の庭に来てしまっていた。もちろん最初にそのことに気付いたのはロドリグだった。

 様式が変わった庭の造りにサッと青くなる。

「どうしたんですか? ロドリグ君」

 それに気付いたアルドがひょいと顔を覗き込むのと同時に、ロドリグはすぐにその手をとって来た道を引き返そうとした。その尋常ではない様子にアルドも逆らわずに素直に腕を引かれるままに歩き出す。

 しかしそれらの行動は一足遅かった。

「あらロドリグ」

 妙に絡み付いてくる女の声に、ロドリグはぎくりと身体を強張らせる。それでも悟られないようにと注意を払いながら、余裕を装った動作で振り向いた。

「――――なんでしょう? 叔母上」

 あからさまに作り物の笑みを浮かべて会釈してきた甥っ子に、そのことに気付かない様子で満足そうに鼻で笑うと、叔母は無遠慮な視線をアルドに向ける。

「なぁにその子? 顔形はとても良いけど、随分汚らしい服を着てるじゃないの。おお汚らわしい。貧民街のお生まれかしら?」

 クスクスと侮蔑の笑いを浮かべて見下した発言をしてくる。この叔母は、気付いて言っている

 ロドリグは苦い笑みを浮かべて、それでも声を荒げたりせずに答えた。

「叔母上、この方はお祖父様の館で療養中のお客様です。その言い方はおよしください。それにこれは、療養中にお貸ししてる――――私の服です。それのせいで汚らしいと仰るのでしたらご訂正ください」

 下手に出る甥のその様が余程心地良かったらしく、叔母は心底楽しそうに、見目だけは麗しい顔に醜悪な笑みを浮かべる。そして、満足げに笑い声を立てた。

「あら、そうだったの? それはごめんなさいねぇ。そんな安物、あなたの物だとは思わなかったのよ。悪く思わないで頂戴ね。それにセザリスに会ったばかりなものだから余計に……ね」

 悪意に満ちた言葉が容赦なく降り注ぐ。しかしそれでも、ロドリグは曖昧な笑みを返すだけだった。

 黙って成り行きを見守っていたアルドの視線にも、叔母の相手をするのに手一杯は気付かない。

「あらあら私ったらこんな所で無駄話なんてしてしまって。もう行くわね」

 こんなところと無駄を強調すると、叔母はそそくさと歩き出した。ロドリグはほっとひそかに息をつく。するとその瞬間、叔母が「ああそうだわ」と振り向かずに大きい声を出した。この嫌がらせは心臓に悪い。

「ロドリグ? もっとちゃんと勉強しなくては駄目よ。ただでさえ出来が違うのだから、これ以上離されたら目も当てられなくてよ?」

 誰と、とは言わない。嫌味全開な叔母に向かって微かに眉を寄せたものの、やはりロドリグは余計なことを言わずにただ短い返答を返すだけだった。

 派手な装飾を背負った叔母の姿が消えるまで脱力して見送ってしまっていたロドリグ。アルドは横目でそれを見てから、着ている服を引っ張って息を吐いた。

「……僕、こんな立派な服着たのはじめてなんですけどね?」

「――――叔母上は僕のこと貶(けな)したいだけですから」

 随分悲しいことをあっさりと言うものだ。アルドはもう一度叔母が去っていた方向を見る。

「あの方は?」

「父の妹です。隣町に住んでいるんですけどたまに里帰りしてくるんです」

 隣町、ね……。目を細め噛むように呟いたアルド。ロドリグが不思議そうに彼を見た時には、その表情はいつもの柔らかいものになっていた。

「セザリスとは?」

「兄です。僕と違って出来のいい人で、一族の期待の的なんですよ」

「――――君のご家族は皆ああなんですか?」

 『ああ』、というのが叔母のあの態度を指していると瞬時に理解したロドリグは苦笑いして首を振る。

「いいえ。出来が悪いとはよく言われますけどあそこまであからさまなのはあの人ぐらいですよ」

 怨む気にならないのは、あの人も昔兄である我が父と比べられ不遇をしていたと祖父に聞いたことがあるから。だからといって同じ思いを甥にさせようと悪意を向けるその考えは理解出来ない。

 ただ、哀れだと思う。

「――――でも、ロドリグ君もそれを受け入れてしまってるんですね」

 不満げに、アルドが口を開く。ロドリグは驚いた顔を彼に向けた。

「ロドリグ君、君の優しい所は長所です。僕もそれに助けられました」

 アルドもまた、ロドリグに向かい合う。厳しさを潜めた蒼の眼差しが強くロドリグを見据えた。

「けど、全てを許すのは優しさじゃなくて全てをどうでもいいことと見捨てる残虐さです。何事にも関わりたくないという甘えです」

 容赦ない言葉だ。しかし。

「君は医者になるのでしょう? ならそのままじゃ駄目ですよ。医者なら、庶民に親しくあってくれるなら、怒るべきことは怒ってください。言いたいことは言ってください」

 ――――しかし、優しい言葉だ。

「優しいだけの人間なんて、信用出来ないですよ」

 そう締め括ると、アルドは来た道を引き返していく。その背を見て、ロドリグは少しの間感慨に耽った。

 たった二つ上なだけなのに、彼はその二年で自分よりずっとたくさんの経験をしてきたのだな、と。

 アルドの言葉を心中で繰り返して、ロドリグはその背を追いかける。と、途中あることに気付いた。

「アルドさん、よく道覚えてますね。ここって結構広いのに」

 隣に並んで感心して褒めると、アルドは一瞬の間を空けて笑いかけてきた。

「僕道覚えるの得意なんです。一回で覚えられるんですよ。凄いでしょう?」

 珍しい自慢。それでもふざけた物言いは彼に似合わなくて、ロドリグは思わず吹き出してしまう。楽しげな笑い声を立てた。しかし、その笑い声と一緒に忘れてしまったらしい。先の嫌な思いも、今気になったばかりの一瞬の空白の意味も。

第三話

「そろそろ出て行きますね」

 アルドがあっさりとそう口にしたのは、叔母に庭で会ったあの日から更に三日経った日だった。

「――――あ、と……そ、うですね。そろそろ怪我も完治に近いですし、大丈夫だと思います」

 返答が遅れたのは、せっかく出来た友人と離れてしまうことが惜しかったから。けれどここで嘘を言うのは医者の卵として決して出来ない。してはいけない。

「治ってよかったです。おめでとうございます。ついては主治医から一言――――」

 コホンと咳払いして貫禄を出そうとして失敗する。アルドが似合わないですよと笑ったためだ。自分でも自覚のあったロドリグは確かにと笑い、それから、真面目な顔を彼に向ける。

「――――二度と、危険な真似はしないでください」

 思いがけない言葉に、アルドは笑顔で固まる。

 その彼から一瞬も目を逸らさずに続ける。はじめから気付いていて、今日までずっと聞きも言いもしなかったことを。

「あの裂傷は全て刃物で出来たものですね。……何をしたのかは聞きません。ですが、医者――見習いですけど――として言わせて貰います」

 当然のこと。当然過ぎて忘れている人が多いけれど、それを思い出させるのもまた医者の務め。今、ロドリグは自分がそれを果たすべきなのだと、そう判断する。

「命は大事にしてください。生きていなくちゃ何も出来ないんですよ。やりたいことも、しなくちゃいけないことも。――――分かりますね?」

 深く息を吸い、真正面からアルドを見据えると、ロドリグはしっかりとした口調で告げた。

 その毅然とした態度にすっかり閉口してしまったアルド。少しの沈黙の後、彼は顔中の力が抜けたかのように相好を崩す。とても嬉しそうに笑う彼に、てっきりまた似合わないことを言ってしまったかとロドリグは焦った。しかし、おたおたする彼の前に、アルドはその頭を深く下げる。

 息を呑んだロドリグに比べアルドの行動は素早い。さっさと立ち上がると傍らの窓枠に手をかけた。

「ちょ、アルドさん。待ってください、出て行くならせめて入り口から――――」

「お断りします」

 それはもうあっさりとお断りされてしまった。ぽかんと口を開けるロドリグに、アルドはいたずらっ子の様な笑顔でウインクを飛ばす。

「泥棒が堂々と玄関から出て行くなんておかしいでしょう?」

 瞬間、ロドリグの頭の中は真っ白になった。

 彼は今なんと言った? ……泥棒……??

「あ、安心してください。ここでは何も盗ってませんから。何しようにも君がついて回っていたから、何も出来ませんでした。全く、君のお祖父さんの観察眼と君の献身的態度は困ったものですよ」

 困ったと言いながらどこか嬉しそうな彼に、ロドリグは返すべき言葉を失う。その間にアルドは身軽に桟に足をかけていた。そのまま行ってしまおうとするのをロドリグが止めるより早く、彼は自ら振り向く。

 そして、真剣な眼差しを抜けてきた。

「ねぇ、約束してくれますか? もし僕みたいに苦しんで困っている人がいたら、僕にしてくれたみたいに助けてくれるって。そんな医者になるって――――」
 約束してくれますか? 

 言葉の変わりに差し出された真摯な視線に、ロドリグは言葉では応えなかった。変わりに、小指を差し出す。届くとは思わないし、こちらに来てもらいたくてそうしたわけではない。ただ、一番分かりやすくて、単純で、けど子供のように純粋な気持ちで行える約束の仕方だと、そう思っただけ。

 その思いを分かってくれたのか、アルドは柔らかく笑うと、同じくその場で小指を差し出してきた。

 そして一瞬後、金髪碧眼の――実は泥棒だったという友人は姿を消す。

 庭から聞こえてくる足音が遠ざかり消えるまで、ロドリグはそこで見えない友の背を見送った。


 庭に駆け出たアルドは投げかけられる視線に気付いてはっとそちらを向く。

 視線が合ったのは、目付きの鋭い男だった。纏う雰囲気が全く違うというのに、アルドはその男がロドリグの兄セザリスであると悟る。

 整備された道にいる彼と獣道にいるアルド。その間を遮るのは茂みが一つきり。立ち止まってしまった時点でアルドの逃げられる可能性はかなり落ちたと言っていい。しかし何を思ってか、セザリスは彼から目を背けるとそのまま祖父の館へと歩き出した。どうやら見逃してくれるらしい。

 弟と違って何を考えているか分からない男を尻目に、アルドは足早にそこを駆け抜ける。

 高い壁を木を伝って飛び越えたアルドの側に数人の少年達が駆け寄ってきた。

「お帰り。守備は?」

 どうやら泥棒仲間らしい。アルドは仲間達に一度視線をやってから応えずに歩き出した。少年達は慌ててその後を追いかける。

「おい?」

「ここはやめです。次行きますよ」

「やめって……! あーっ、じゃあ次ってどこだよ」

 問われ、アルドはにっと笑う。

「隣町。いくら盗んでも心が痛まないカモを見つけましたから」

 もちろん、叔母のことである。

「そっか。……でも何で? わざわざ酔っ払いからかって怪我までしたのに、台無しじゃん」

 仲間の疑問に、アルドは毒気のない笑みを浮かべるだけで何も答えない。仲間達は皆首を傾げ合う。それに、アルドはようやく嬉しげに口を開いた。

「いいお医者さんがいるんですよ、この家には」

 だから見逃します。

 言外に含まれた思いを正確に汲み取った仲間達は疑問の一切をその一言で晴らした。彼らはあくどい連中からは盗むが善良な相手からは盗まないと、最初にそう決めていたから。

「じゃあ仕方ないな。納得」

「そーだなー。じゃあぱっぱと隣町行こうか」

「おー! でもってその後はこの街行こうぜ」

 仲間の一人が歩きながらばさりと地図を広げ、赤いペンでマークした場所を指差す。

「この街にさ、ロダー家の娘が一人で屋敷構えてんだって。次の潜入先ここな」

 意気揚々と話している仲間達の声を背中に、アルドは高い空を見上げた。

 久し振りに、青い空を見た気がする―――。

「おい聞いてんのか? ここに潜入の時も女装だからな。次の街で勘取り戻せよ、ミリアルド」

 久々に呼ばれた本名に、アルド―――ミリアルドは少年めいた微笑を閃かせると、瞬きと共に少女の顔になる。そして、振り返ることなく去って行った。

 心優しい医者の卵との思い出を心の奥底に仕舞いいれて――――。


 それから、数年の時が流れる。

第四話

 軍の看護学校に入って六年が経った。

 今年で卒業となるロドリグは、二ヶ月後には海軍に正式入隊。巡洋艦ミネルヴァの搭乗員となる。卒業試験も無事に済ませ優秀な成績も収め、何事もつつがなく、後は卒業を待つだけであった。

 しかしその日、彼は珍しい剣幕で教官達に詰め寄っていた。


*** *** ***


「納得出来ません!!」

 強い口調で大声を出してくるロドリグに教官達も戸惑った様子を隠せずにいる。

「し、しかしだねエリオット君。君はせっかく就職も決まったというのにこんなものにわざわざ……」

「こんなものとはなんですか!? 今こうしている間にも苦しんでいる人がいるというのに!!」

 いつもの穏やかな彼からは考え付かないほどの剣幕に周りの教官達は色を失う者が増えていく。その一方で、覗いている学生達からは応援する声が飛び交っていた。

 ものの三十分で早くも学校中の騒ぎになっているこれは、後輩の学生が慌しくロドリグの元に駆けてきたことから始まる。

 彼の手に握られていたのはくしゃくしゃに丸められた一枚の紙だった。教官室の掃除をしている時に偶然ゴミ箱の中から見つけたという。

 一体何をそんなに慌てているのかと受け取ったそれを見たロドリグの表情は一瞬で豹変した。

 それは、ある村からの切実な救援要請だった。

 拙い文字で綴られた村や村人の状況。何故軍学校に手紙を出したかの理由。そして助けを懇願する言葉がいくつも連ねられていた。

 しかしそこに押されていたのは赤い「不許可」の判子。あまりにも無慈悲な判断に、ロドリグはすぐに教官室に乗り込んだ。そしてそのことが生徒の口から耳に口から耳に伝わって、結果学校中の注目がここに集まることとなった。

「しかしねぇ、苦しんでいる人がいるからと我々が動くのもどうかと」

「苦しんでいる人達のために動かないで、医者(僕達)は誰のために動くんですか!!」

「だが我々は軍属だエリオット君。民間人は民間の医者に診てもらえばいい」

「この手紙にちゃんと書いてあるじゃないですか! 彼らを診る医者が足りないって!! こんな必死な要請を無視するつもりですか?! 第一軍属だと言っても平時は民間への手助けも認められているじゃないですか」

 恐らくここまで彼らがこの村に行くのを渋るのは、距離が遠い。卒業を間近に控えたこの時期に余計な騒ぎを起こしたくない。そして、この手紙に書いてある症状が軽いものだと見ているためだろう。

 しかしロドリグはこれを「軽いもの」とは見ない。

 この村は最近独立したらしい。以前は領主の圧政で教育に回せる金がなく、独立した後もなかなか教育に手が回らないと聞いている。そんな村で難しい言い回しが日常遣われているはずがない。そのため伝えられる症状が軽いものに見えてしまっているのだと、彼はそう判断したのだ。それにそもそもこの手紙は医者の直筆でない。本来こういうものは医者が手ずから書くべきであるのに、何故そうしなかったか。ロドリグにはその暇すらないのだという答えしか出せない。

「しかし……」

 まだ渋る教官に、ロドリグはキッと眦を決すると、自分達を隔てる机に両拳を強く叩きつける。

 シンと辺りが一斉に静まった。ロドリグはその中で決然と言い放つ。

「僕が行きます。もう医師としての権限も持っていますから、僕が責任者になって現場に向かいます」

 一切の迷いを見せない彼に押されかけた教官は、しかしその意地を見せて激しく首を振った。

「駄目だ駄目だ! 君は二ヶ月後には海軍所属になるんだぞ?! そんな所に行ったら半月は帰って来られないじゃないか。許可は出来ん」

「だからといって見捨てられません」

「エリオット君!」

 凄みを利かせて怒鳴る教官にすら、ロドリグは揺れない視線を返すのみ。すると、また別の教官が宥めようとしてくる。

「エリオット君、よく考えなさい。ここでそんな行動をとってどうする? 軍入りを蹴ったとなると君の、いや一族の名誉に傷が付く。それでも言いのかい?」

 脅しも入った言葉に、ロドリグは怯えなかった。

「ここで人命を見捨てて自らの名誉を重んじることこそ医学の名門エリオット家の恥です。たとえ家から勘当されても軍部を追放されても、僕は命を見捨てたりしません」

 決して引く気のない彼の宣言に、教官達は口をつぐんだ。どれほどの覚悟をもってそう口にしたか、彼らにそれは量れない。けれど彼らは知っている。ロドリグが医者としてどれほど優秀か。医者であることをどれだけ誇りに思っているか。

 長い沈黙の後、教官長が重く息を吐き出した。

「――――分かった、許可しよう」

 念願の言葉にロドリグ達生徒は歓声を上げ、教官達は非難の声を上げる。それを全てかいくぐり、教官長は厳しい視線をロドリグに向けた。

「だが君は本当に行くのか? 未来を捨ててまで」

 問いかけにロドリグは真剣な顔で頷く。教官長はそれを見て残念そうな顔で微苦笑した。そしてすぐに遠征の班を作るようにと指示を出す。

 名目は、課外演習。


 その様子を、隣の棟の迎賓室から眺める視線が二対。

「――――どうします艦長? このままだと優秀な人材逃がしてしまいますよ」

 青灰色の髪の青年が気にするように隣に立つ上司に目を向けた。その視線を受けると、藤色の髪をした女性は面白がっている視線を向かい下の部屋に注ぎ込んだままあっさりと告げる。

「ミネルヴァは二ヶ月じゃ帰って来れない場所まで向かう。お互いに遅刻したから入隊の時期は繰り下げだ。そうだな?」

 何言ってるんですか!! と怒鳴ろうとして、青年はしばし葛藤する。そして、疲れた様子で了承を口にした。どうやら上司の破天荒には慣れているらしい。

女性は満足げに笑うと、不敵は輝きを目に閃かせる。

「誰があんなでかい魚を手放すか。私は優秀な人材が欲しいんだ」

 遠い約束を、果たすため――――。

「―――さぁ、帰るぞヴォネガ副官。次にこの大陸に来るのは半月後だ」

「――――了解しました、ナディカ艦長」

 上着を翻すナディカの背を、溜め息と共にヴォネガが追う。わざわざ「副官」と付けたのは、これ以上は口出し無用という暗黙の命令。それが分からないほど短い付き合いではなく勘も鈍くない彼は、上司の希望通りにその件に関してそれ以上は何も言わなかった。

 この破天荒な艦長エリザベス・ナディカと苦労性な副官ルイス・ヴォネガこそ、後にロドリグの乗る巡洋艦ミネルヴァの上司達となる。の、だが、それはこれからまだ半年は先のこととだ――――。


*** *** ***


 一ヵ月後、救援要請に応えて現場に赴いた看護学校の学生・教官達は想像以上の状況に愕然とした。しかしその中唯一冷静であったロドリグ・エリオットの姿に鼓舞され、徐々に冷静さを取り戻していったという。

 そしてそれから四ヵ月後には村中の病人・怪我人はほぼ全員が完治。また一ヵ月後に学校に戻ったロドリグは、それから十日遅れで訪れて来たミネルヴァに搭乗することとなった。

最初は申し訳ないと断ったロドリグが艦長エリザベス・ナディカの押しに負け半ば強制的に入隊させられた、とはしばらく学生の間で有名な話になる。



 そしてそれから、また数年の時が経つ。

終話

『乗船希望者あり。これより数分停泊します』

 二度流れたアナウンス。

 ややあって後方で広がるざわめきに珍しく好奇心を出したロドリグは、一緒にいた水兵さんと連れ立ってそちらへと向かった。

 途中何人かと行き会いながら辿り着いた先では豪華な船が泊まっている。そこから搭乗してきたらしい人物を見て、ロドリグは目を瞠り、言葉を失った。

 他の、彼女に見惚(みと)れている者達とは違う意味で、彼女から目が離せなくなる。

そうしていると水兵さんが艦長に命じられてマリアンヌを呼びに走っていった。

 意識を彼女から逸らせてその背中を見送っていると、ふと背中に視線が刺さる。何かと振り向いた先で視線が合ったのは例の搭乗者。彼女はじっとこちらを睨んでいたかと思うと、視線が合った瞬間懐かしそうな顔をした。

 それでロドリグは確信する。彼女が誰か



 夜も更けた頃、ロドリグは救護室で独りお茶を飲んでいた。するとそこに、軽いノックの音がする。

「開いてますよ。入ってください。どうしま―――」

 立ち上がって戸口の方に顔を向けたロドリグは、意外な客人に驚いたように数度瞬いた。

「―――アルドさん、お久し振りですね。どうぞ」

 一瞬呆けただけで後は冷静に席を勧めてくるロドリグに金の髪の客人は苦笑する。

「あのぉ。私、ミリー・グッドナイトと申します。そのアルドさんという方では……」

 頬に手を当て困ったように微笑むミリーに、ロドリグもう一つ紅茶を用意しながらなんてことのないように答える。

「この仕事に就いていると首周りとか見るだけで男女の区別が付くんですよ。どうぞ座ってください」

 にっこりと穏やか笑顔を向けるロドリグ。ミリーはぽかんとすると、まもなく声を立てて笑った。『ミリー』としてではなく、昔日に別れた友(アルド)として。

「ロドリグくん随分立派になりましたねぇ。ちょっと面白くないです」

 いたずらっ子の笑顔で、アルドは勧められた席に着く。ふわりと、温かい紅茶の匂いが鼻腔をくすぐった。

「でも、きっと分かってくれると思いましたよ。友達ですもんね、僕達」

 無邪気な少年の笑顔が閃く。ロドリグは笑顔で頷き自分も席に着き直した。

それから少しの間、窮屈ではない沈黙が訪れる。

「――――ありがとうございました」

 ややあって口を開いたのはアルドだった。

 ロドリグは何のことか分からずに首を傾げる。その彼に小さく微笑んでから、アルドはとある単語を口にした。はっと、ロドリグは目を見開く。

 彼が口にしたのは、卒業前にロドリグ達が救援に向かった村の名前だった。

「―――この村、僕達の村なんです。マリアンヌお嬢様のご寄付のおかげで独立出来た」

 そこから始まり、アルドは話を聞かせてくれた。

 過去には聞くことが出来なかった彼の素性。村の過去。そのために彼らが取った方法。マリアンヌとの出会い。村の独立。あの年不運にも重なった流行病と多数の事故。足りない医者を掻き集めるため、そのための資金を調達するため奔走していたこと。本当は見つけていた自分に声をかけなかった理由。

「だってロドリグ君凄く一生懸命頑張ってくれてるんだもの。声をかけて邪魔するくらいなら徹底的に裏方に回って支援に回りたかったんですよ僕は」

 あの日の少年は面影を残したまま、あの時よりずっと立派な医者になっていた。彼が望んだ通り、多くの人が望む志を持って。

声など、かけられなかった。

「――――ロドリグ君、約束、守ってくれて本当にありがとうございます」

 ささやかな願いは、子供の単なる戯言だった。

 けれど彼は守ってくれた。その穏やかな眼差しを濁すことなく。

ミリアルドは知っている。ロドリグが彼の村を救うために自分の就職を蹴ったことを。その後偶然にもこの船の到着が遅れたためこうして軍医として活動出来ているが、非常に危ない状況だったということを。

 未だかつて、ミリアルドはこれほどまでに深い慈愛と誠意を感じたことはない。

「アルドさん?」

 瞼を深く閉じてカップを握り締めるアルドにロドリグは心配そうに手を伸ばす。触れたのは額。熱は無いようなので安心した。慣れない船旅をすると熱を出す者というものは後を絶たないのだ。

 ほっと息をついたその時、いきなりアルドが机に突っ伏した。同時に身体を震わせたのに驚いたが、どうやら笑っているだけらしい。何がおかしいのか皆目見当の付かないロドリグはただ困惑するだけ。ややあって、首の角度を変え、突っ伏したままの格好でアルドがこちらを見上げてきた。

「――――君は、本当に『いいお医者さん』ですね」

 感慨深く囁いて、アルドは手を―――小指を差し出して来る。その意味に気付いたロドリグもまた小指を差し出して、その細い指に絡ませた。

「――――これからも、そうありたいと思います。辛い思いを我慢しなくちゃいけない人が一人でも減るように――――」

 目下の救済の対象は、この友人と同じ色合いの少年だろう。含み笑いをしながらロドリグはそう考える。


 永い時を経た後の邂逅に騒がしさは無く、少年達は穏やかな時を思い出話に花を咲かせて過ごした。

 夜は、静かに更けていく。

おまけ

「そういえばマリアンヌは? あの子はこの時間じゃ寝ていないでしょう?」

 完全に部下の性格と生活習慣を把握しているロドリグの問いかけに、アルドは大丈夫ですよとあっさり返答する。

「ちゃんと全部話して許可を貰ってから来ましたから。その代わり明日は一日中お嬢様にお付き合いするんですけどね」

 変わりに、と言うわりに随分嬉しそうなアルドにロドリグは軽い好奇心を駆られる。

「―――不躾ですが、もしかして恋愛関係ですか?」

 真顔で聞くと、アルドは軽く笑った。

「あはは。そんなんじゃありませんよ。確かにお嬢様のことは大好きですけど、恋愛感情とはちょっと違うと思います」

 それはお嬢様も同じだと思いますよ。そう言われ、ロドリグは少しからかいたい衝動に襲われる。そして、駄目だと思いつつ言ってしまった。

「じゃあもしマリアンヌに恋人が出来たら?」

「試します」

 一瞬の間も無く寄越された返答は妙な迫力を伴っていた。これは地雷だったかと、ロドリグはやはり慣れないことはするべきでないと激しく後悔する。

「どんな相手であろうが私が試します。真面目だ誠実だ言って本当にお嬢様を愛してるかなんて分からないんですからね。ええそうですよ、お金目当てかもしれないじゃないですか。そんな輩にお嬢様は渡しません。まず私のこの容姿で誑(たぶら)かすでしょう? そして引っかかったら身ぐるみ剥いでその辺りに捨ててきます。引っかからなかったら今度はソフィアさんと協力してあれを試して――――ふふふふふ」

 立ち上がるやこちらが口を挟むまもなく矢継ぎ早に独り言の様に語り出すミリアルド。いやミリー。最後の辺りはもう目が正気じゃない。

「ご安心くださいマリアンヌお嬢様!! お嬢様の幸せはこのミリーがお守りいたしますわーーー!!!」

 必ずやお嬢様にぴったりのお相手をーー!!

 と大絶叫するその姿。もう完全にミリアルドではなくミリー・グッドナイトだ。

 夜中ですと宥めるロドリグ。余程彼女が大切なのだなと考えながら、それにしてもこの変わり様は異状なのではとも嫌な予感に背中を冷やす。

 その時、スゥ、と香ってきた匂いに眉をしかめる。この匂いは……アルコール。しかも飲料用の。どうやらミリーからだ。

「――――アルドさん……」

「ミリーですぅぅ」

―――完全に酔っている。ロドリグはこめかみをもんで再度呼びかけなおす。

「ミリーさん、お酒飲みました?」

「いいえぇ。パンダさんから頂いた木の実でしたら先ほどお嬢様と頂きましたけどぉ」

 パンダ・木の実、と来て、ロドリグは十中八九それだと確信した。

パンダの故郷の付近にしかない植物がある。その木の実には多量のアルコール成分が含まれているのだ。しかし酔いの症状が発現するのが遅いため、酒より厄介な代物である。以前パンダがそれを船員に配ったために大変なことになり、それは二度と送ってもらわないようにと警告したというのに――――。

 ロドリグは騒ぐミリーを押さえ、どこからか聞こえてくる騒ぎを聞きながら、背中に怒りを背負う。


 翌日、ロドリグに呼び出されたパンダは健康診断と称して図太い針の注射をされたらしい。(※注・中身はブドウ糖。人体に害はありません)

 どうやら昔日ミリアルドがそうあるべきだと諭した通り、ロドリグは優しいだけの医者にはならなかったようだ――――。


「ぷぎーーーーーーーーー!!!」


 合掌。

ロドリグ回想編