エリオット兄弟の休日

 のどかな昼下がり。自室でぱらりぱらりとページとめくっていたセザリスは、思案顔で顎に手を当てる。ややあって、おもむろに机の上に置いてあるレターケースの一番上の引き出しを開けた。中から取り出したのは数枚の白紙。思案顔のままペンを取り、それを紙の上で走らせる。時々止まるペン先は、何かを考えるように空中に彷徨わせる視線が手元に戻るたび動き出した。それでも止まる時間が長くなると、今度は時折席を立っては本棚の本を手に取り、ぱらぱらとめくってまた戻ってくることが増えてくる。

 そんなことを繰り返すこと1時間。数枚を書ききってようやく満足したセザリスは、脇に今書き上げたばかりの紙を置き、違う白紙を自分の前に持ってきた。そうして何かを確認するように紙を見比べ、白紙の紙に何事かを書き込んでいく。1枚、2枚、3枚……と最初に書き上げた紙がめくられるたびに白紙だった紙は文字で埋まっていった。

 全ての紙をめくり終わると、今度こそセザリスはペンを置く。それから今作ったばかりの紙をまとめて封筒に入れた。

「誰か」

 立ち上がり声をかけると、隣の小部屋に控えていた使用人がすぐさま出てきて机の隣に立つ。セザリスは使用人に視線を向けてこう命じた。

「ロドリグに人をやれ。明日そちらに行く、と」

 こうして、セザリス・エリオットによるロドリグ・エリオットへの電撃訪問は決定される。



 一体何があったのだろう。自身が住まう家の玄関に立ち外を臨むロドリグ・エリオットは不安な気持ちでいっぱいだった。

 兄であるセザリスからの伝言が届いたのは昨日の夕方のこと。本日急遽ロドリグが住む別邸に訪れる、との報に、昨晩は使用人たちと共に大慌てで準備をした。あの兄にしては不躾の感が多少あるが、もしかしたらその対応力をはかる抜き打ちテストかもしれない。しかも、もしかしたら父の命なのかもしれない。あるいは緊急で伝えなくてはならない有事があったのかもしれない。それこそ、家や国に関わるような。

 寝不足など感じている暇もないほど、ロドリグは緊張している。用向きが告げられなかったのもまた不安を助長させていた。告げられた時間が近付いたので玄関まで迎えに出たのだが、この待っている時間もまた嫌な想像をさせてくる。

 早く来てくれないだろうか。かつてないほど兄の到着を待ち焦がれていると、敷地の前で待機してくれていた使用人のうちのひとりが駆けて近付いてきた。

「セザリス様ご到着です」

 来訪を告げられたロドリグは、感謝と労いを使用人に向けてから、深呼吸をして改めて背筋を伸ばす。少しの間そのまま待つと、兄を乗せているだろう馬車が玄関の前で止まった。

「邪魔をするぞ」

 短く告げるセザリスに頭を下げ来訪を歓迎してから、頭を上げるついでにロドリグはちらりと彼の手に持たれている封筒を盗み見る。使用人に持たせるでもなく自ら持ってきたあの封筒が、もしかしたら今回の用件なのかもしれない。ごくりと喉が鳴り、拳は自然と握りしめられた。それでも平静を装い用意した部屋へと案内する。その途中に見かけた時計が定刻だったことに気付いた時、兄の几帳面さを感じた気がした。

「………………はい?」

 大きく首を傾げ、笑顔を固めるロドリグ。兄が口にしたばかりの言葉が理解出来ない。そんな弟の前に、セザリスは改めて封筒から取り出した紙を差し出す。

「だから、クロスワードを作ってみたからやってみてくれ」

 クロスワード。クロスワードと言ったのか、この兄は。庶民の娯楽クロスワードと。

 冷や汗交じりの笑みのまま、ロドリグはそぉっと視線を手元に下ろした。そこにあるのは数枚の紙。四角のマスがいくつも交差するそれは、どうやら手で書かれているらしく、ほとんど真っ直ぐ引かれている中に時々継ぎ目が見られる。その横にはキーワードが、ご丁寧に縦と横に分かれて書かれていた。流麗なその文字は間違いなく兄の字だ。

 再び兄に視線を向ける。クールな印象は変わらない。だが、最近ロドリグは兄の感情が目に出ることを学んだ。その学習の結果で判断するなら、今の兄は間違いなくわくわく・そわそわとした期待を抱いていた。

「……兄さん、つかぬ事をお伺いしますが、もしや暇でしたか?」

 現在、軍部ではあまりに休みを取らない者たちに中期連休を与える制度の試みを行っている。その発端は、とある陸軍尉官が過労のために倒れたことにあった。優秀な人物だっただけに軍部は事態を重く見、これ以上人材を浪費しないためにも適度に休息を取らせよう、との意見が出たのである。それは陸軍・海軍ともに適用されており、見事対象となったセザリスは3日ほど前から休みに入らされていたはずだ。

「ああ。よく分かったな」

「さすがに分かりますよ……そうじゃなかったらこんなことしないでしょう」

 素直に認めて頷くセザリス。ロドリグは苦笑いをしてこめかみに手を当てた。無趣味というわけではないのだろうが、それでも仕事に精を出すタイプのセザリスには暇を持て余すほどの時間であったらしい。

「こんな、とは聞き捨てならんな。本で見たから作ってみたのだが、意外に面白かったぞ」

 真顔で訂正してくる兄と認識している兄との差異に違和感を覚えつつも素直に謝り、ロドリグは改めてクロスワードの一枚を手に取る。

「ええと、このまま書き込んでいいんですか? それとも別の用紙にしますか?」

 あれだけ不安に思っていた自分が馬鹿らしくなるし、こんなことなら用件を伝えておいて欲しかったとも思う。それでも、折角作ってくれたものを無駄には出来ないし、何より兄が(自分の暇つぶしが主のようだが)ロドリグに遊ばせるために作ってくれたというのが何とも嬉しく、むず痒かった。

 ロドリグがやる気を見せると、セザリスはさらに封筒から紙を取り出す。

「どちらでもいいぞ。別紙がよければ解答用の紙も作った」

「兄さん本気すぎません? えーっと、では折角なので解答の用紙の方に」

 作ってもらったものは素直に使う、という誠意を見せるロドリグに、セザリスは満足そうに紙を差し出した。それを受け取り、部屋の隅に置いてある棚からペンも持ってきて準備は完了。ロドリグは兄の期待に満ちた視線の中、手作りクロスワードをはじめる。

 最初こそ多少の呆れがあったが、いざ始めると楽しいようで、自然とロドリグはクロスワードにのめりこんでいった。その間のセザリスと言えば、ロドリグが分からずに飛ばした問題があればそわそわし、他の解答のおかげで分かって嬉しそうにすればほっとしたりと、さりげない百面相を披露していた。

 そうして30分の時間が過ぎ去ったころには、解答用紙のマスが全て埋まりきる。

「出来ました! あとはこの数字の順に単語を並べて……」

 解答用紙のマスのいくつかに振られた数字の順に、用紙の上にある解答欄に文字を入れていく。そうして出てきた言葉は――。

「『あっぷるくらんぶるがたべたい』」

 そのまま読み上げてから、一拍、二拍。ロドリグの頭はようやくその言葉を変換した。

『アップルクランブルが食べたい』

 すっとロドリグの視線がセザリスに向くが、セザリスは恥じることも恐れることもなく1枚目の問題用紙をどかして2枚目を表に出す。

「2枚目に味の要求があるので次はこれだ」

「この空気の中続行しますか!?」

 衝撃を堪え切れずにロドリグが立ち上がって叫ぶと、セザリスは続行しない理由が分からないとばかりに首を傾げた。

「何がだ?」

「何がだ、じゃないですよ! 突然いらしたと思ったらお菓子の要求って――え、待ってください、もしかしてこれ全部そうですか?」

 これ、と視線で問うたのは2枚目が明らかになった問題用紙。1枚目よりもマスの数や問題が少なくなっているようだ。

「いかにも」

 こくりと真顔で頷く兄に、ロドリグは机に両手をついて脱力する。

「……残りに込められているご要望は何ですか……?」

 問題用紙は全部で5枚。1枚目が食べたいもの、2枚目が味の要望。3枚目から5枚目はいったい何が答えなのか。疲れた目を向けると、セザリスはずらした紙を指先でとんと叩いた。

「3枚目は飲み物、4枚目は数量、5枚目はプラスαだ」

 やはり動じない兄が冷静に答えると、ロドリグは机に突っ伏す形で椅子に座り直す。

「ほんっっとうに暇だったんですね兄さん……」

「それもあるが、いきなり『食べたいから作れ』と頼むのはいくら弟相手でも失礼かと思ってな。なら、一度遊びの気分を入れて」

「お気遣いはありがたいですがその気遣いと労力を手紙の文面として生かしてくださってればお迎えした時にはすでに作り終わっていましたからね!?」

 再び耐え切れなくなったロドリグは顔を跳ね上げ一息で兄の行動にツッコんだ。責め立てる口調ではないが、「何でそうなったの!?」と疑問に耐えかねている様子の弟に、セザリスは「それもそうか」と本当に今気付いた様子で軽く目を見開く。そんな兄の態度を見たロドリグの頭は再び机にご挨拶する。

 一切悪気が含まれていない行動に振り回されるのは周りが周りなだけに慣れている。とはいえ、身内にここまで振り回されたのは初めてだ。いつもと勝手が違う状況にロドリグの目にはきらりと涙が光った。ほっとしたのか残念だったのか、兄が情けないのか兄についていけない自分が情けないのか、もう何で泣いているのかも分からない。

「……すまない、自分の遊びに付き合わせ過ぎた」

 ロドリグがすっかり机の上で潰れてしまったのを見て、セザリスも流石にまずかったと自覚したらしい。そっと残る問題を引き取ろうと手を伸ばすが、それは脇から伸びたロドリグの手に阻まれる。

「ロドリグ?」

「回収しなくて大丈夫ですよ、兄さん。もうここまで来たら張り切って解いて張り切って作らせていただきます! 幸い、アップルクランブルは難しいお菓子じゃありませんからね」

 むくりと上半身を起こすと、ロドリグは気合を入れて次の問題にとりかかった。自棄になっているのか問題を徐々に簡単にしていったのが効いたのか、そのスピードは最初に比べて随分早くなっている。

 2枚目、3枚目、4枚目、5枚目。次々にペンを走らせれば、1枚目を解いたのと同じくらいの時間が経つ頃には、残っていた問題は全てが解き終わっていた。

「よし、出来ました。後はそれぞれの答えを出して……っと」

 解くだけ解いて最終の答えは後でまとめて、と放置していた問題用紙をもう一度手元に引っ張る。書き連ねれば、2枚目は「甘さ控えめで」。3枚目は「エスプレッソ」、4枚目は「2人分」。――一応ロドリグとお茶をするつもりで来たらしい。思わず力が抜けて失笑したロドリグを見て、セザリスは少し恥ずかしそうに眉を歪めた。

 では最後の5枚目は、としたところでセザリスに声をかけられた。

「それはキッチンに行く途中に埋めろ」

 さあキッチンへ、と指先が扉に向けてちょいちょいと動く。そろそろおなかが空いたのだろうか。最後の一枚を持ったまま、ロドリグは素直に廊下に出た。控えていた使用人に出来上がるまでのつなぎとしてお茶のおかわりを頼んで、そそくさとキッチンに向かう。

 材料と手順を考えながら歩いていたロドリグは、ふと自分の手の中の紙の存在を思い出した。

「そういえば最後の答えは何だったんでしょうか」

 2枚目から4枚目よりは1枚目に難易度が近かった気がするが。ちょうど窓際で立ち止まったロドリグは、用紙に改めて目を通す。ペンはないのでそのまま番号のついた文字を小声で読み上げた。そして3文字目を口にした途端に目を見開き、次いで嬉しそうに頬を緩める。

「――こちらこそ」

 覚えず呟くと、ロドリグは紙を丁寧に畳んで胸のポケットにしまった。再び歩き出したその足取りは非常に軽い。彼の心には今、ひとつの言葉が躍っている。きっと今頃ひとり照れに苛まれているだろう兄の言葉が。たった5文字の、しかし世界で一番優秀だろう言葉が。


 「ありがとう」が。

エリオット兄弟の休日