君よ健やかなれ

 職場のカレンダーに付けられた賑やかな花丸。日一日と近付いてくるその日を思い、リチャード・ホーガンは眉を寄せて重い息を吐きだす。
 その話題が出たのは職場の女性の子供が誕生日を迎えたことがきっかけだった。誕生日会の招待状、飾り付け、プレゼント、ケーキ、と準備は大変だったけれど楽しかった、という彼女に、周りも「うちも」「うちも」と同意を唱えていた。休憩がてら耳を傾けていたリチャードは、コーヒーに口をつけながら頭に浮かんだことをそのまま口にしてしまったのだ。

「そういえばロドリグの誕生日が来月だな」

 と。
 去年は慌ただしい時期に重なってしまっていたのと、まだそれほどロドリグが周りと親しかったわけではなかったので、買ってきたケーキや食事でリチャードと二人で祝った。だが、今年はそうもいかないようだ。
 それはお誕生会をやらなくては駄目ですね! という意見があっという間に広がり、あれよあれよという間に話が進んでいった。会話の中で誕生日会のために必要なものがリストアップされると、これはうちにあるので差し上げます、これは安い所があるので住所書いておきます、これはいい所があるので紹介します、と、作られたばかりのリストにはその他のメモがどんどん書き込まれていく。最後にリチャードの手に至る頃には随分と頼りになる一枚になっていた。
 ロドリグ君喜んでくれるといいですね、と善意の笑顔に囲まれてしまえば、リチャードもまた笑顔で「そうだな」と答えざるを得なかった。頬が引きつっていたことは、のちに同僚のフィル・ブラウンから笑いながら指摘されることになる。

(祝ってやりたい気持ちはもちろんあるんだが……)

 ロドリグことロドリグ・エリオットは実子どころか血縁ですらなく、今は事情があって預かっている状態だ。素直で大人しく、学ぶことも嫌がらないいい子なので、ほとんど手を焼かされることはない。あえて欠点を挙げるなら遠慮が過ぎることくらいだろう。預かってから約二年が経つ今でも素直な意見を引き出すのに苦労するのは如何なものか。
 リチャードはその手の子供の遠慮が非常に嫌いだ。子供とは我儘で然るべき存在。その我儘が通るか通らないかは大人が判別すべきことであり、子供はそれを受けて少しずつ遠慮するべきこととしなくていいことの分別をつけていくべきなのだ。それを、最初から全て諦めて何も要求しないのでは自分を大事にする心が育たない。「自分の要求なんて」というくだらない考えを抱くようになってしまうかもしれない。それは、あまりにも気に食わなかった。
 そんな考えの元リチャードもロドリグが変に遠慮するたびに怒っているのだが、性分なのか親から捨てられたような心情故なのかリチャードの鞭多めの教育方針にもへこたれないメンタルが大活躍しているせいなのか、それは中々治らずにいる。とはいえ、最近は「理不尽だ」と顔に出ることが少しずつ増えているので、傾向としては悪くないだろう。

(その調子で欲しいものを言ってくれれば楽なんだがなぁ)

 自他共に認める鞭の多い教育を施してはいるが、当然ながら可愛がってはいるので、誕生日を祝ってやりたい気持ちは十二分にある。だが、職務中はともかくプライベートでのリチャードはそこまで気の利く男かと言われればそうでもないのだ。つまりどういうことかというと――プレゼントが思いつかない。
 同僚たちが病院のあちこちのカレンダーに印をつけるものだから、ロドリグ本人も誕生日会の存在はすでに認識している。だが、「何が欲しい」と聞かれても「何でもいい、貰えるだけで嬉しい」としか答えないのだ。これも遠慮かと軽く脅してみるが、涙目になっても「本当に何でも嬉しいんです」としか答えないので本当の本当に希望がないらしい。なおこの行動は目撃した看護師に後ろからカルテで叩かれ叱責された。
 ならば将来のために医療の本か、とも思ったのだが、従業員たちにもカレンダーを見て知った患者(と保護者)たちにも白い眼をされたのでそれは流石に控えることにした。
 そんなこんなで日々日々頭を悩ませているのだが、病院にこまめに顔を出す礼儀正しいロドリグは同僚たちにも可愛がられている。彼ら彼女らも、ロドリグにプレゼント与えるのを楽しみにしていた。現在はプレゼントが被らないようにと「自分はこれをあげる」リストが事務所の高い所に張り出されている。当日が近付くにつれ種類が増え、同時にリチャードの選択肢がなくなりつつあった。

(遠回しに日々の鬱憤晴らされてないか俺……?)

 間違いなく純粋な厚意すら、今は穿った目で見てしまう。それだけリチャードは追い詰められていた。

「先生、次の患者さん入ります」

 看護師に声を掛けられ、短く返事をしてカルテを受け取る。少し待つと、むすくれた少年――ロドリグの同級生――が祖母に連れられて入ってきた。祖母と「よろしくお願いします」と挨拶を交わすことから始まり、本題について本人の話も交えあらかた話し終わると、祖母は穏やかな笑みでそういえばと話題を変える。

「ロド君のお誕生日会なんですってね。うちの子も招待していただいちゃって」

 以前は診察後の雑談の話題は人それぞれだったが、今は皆決まってこの話題を振ってきた。まあ、勢い余って表のカレンダーにも書かれてしまっているので仕方ないことだろう。かかりつけの患者たちはリチャードがその日休みだとすら思っているくらいだ。当の本人としては休むほどではと思っているのだが、口を挟んだら「主役の子供の親は忙しいですよ」と散々に脅された。このままいくと、自分で申請せずとも休みになることだろう。

「ええ、そうなんですよ。準備は周りが手伝ってくれてるんですが、プレゼントをどうしたものかと」

「やるもんないならどっか連れてってやりゃいいじゃん」

 湿疹が出ている腕を掻きながら少年がぶっきらぼうに口をはさんだ。いつもは生意気ながらももう少し礼儀正しいのだが、軽いアレルギー反応のせいで痒みが続いているので苛ついているらしい。言い草に怒る祖母を留めながらリチャードは「掻くなって」と少年の手を止める。塗ったばかりの薬が剥げてしまっているのでもう一度塗り直すために手に薬をとった。

「どこかねぇ。お前らの年齢だとどこ行きたい?」

「俺は動き回って遊べる所のが好きだけど、ロドは違うだろ。俺に訊かないで直接訊けよ先生」

「はーいちょっと沁みる薬塗るぞー」

 言っている内容はともかく言い方の悪さにいい加減イラっと来たので、刺激の強い別の薬を塗り足す。診察室からは少年の悲鳴と祖母の笑い声が響くことになった。

 時間の流れは無常だ。すっかり日が落ちた道を一人歩きながらリチャードは重い溜息を吐きだす。
 ロドリグの誕生日まであと五日。誕生会の準備が滞りなく進んでいるのに反し、ロドリグへのプレゼントばかりが決まらずにいた。もういっそ誰かのプレゼントに被せてしまおうかとすら思えてきている。日々過ごしながら欲しいものを探っているが、「これなら」と思うものはすでにリストに登録されているのだからどうしようもない。

「帰ったぞー」

 鍵を開けて家に入ると、すぐに家の奥から「おかえりなさい」とロドリグが顔を出した。

「先生、すぐご飯食べますか?」

 どこか浮足立った様子でロドリグが足早に近付いてくる。腹でも減っているのかと思ったが、不意に気付けば空っぽの胃を刺激する美味そうな匂いが鼻をくすぐった。つい返事より先にリチャードが顔を家の奥に向けると、ロドリグは嬉しそうに頬を緩める。

「アンジェリカさんがご飯を作ってくださいました。ハンバーグとシチューですよ。パンも作ったもの持ってきてくれました」

 予想通りの名前から連想された味を思い出し、リチャードの腹は盛大に鳴る。一瞬の沈黙の中で二人の視線が交わると、ロドリグはくすくすと笑い出した。

「へへへ、先生もお腹すいてますよね。よかった、僕もです。僕火にかけてきますね!」

 小走りに小さな体はキッチンへと消えていくのを見送りながら、リチャードは「火加減気を付けろよ」と声をかける。分かりました、と元気が返事がされたのを確認してから、自室へと足を向けた。

「またアンジェリカに借りが出来ちまったなぁ」

 アンジェリカは近所でパン屋を経営している女性で、リチャードにとっては昔馴染みの人物だ。自身が子供三人の母親なだけに、リチャードが嫁を取る前に子供を持つことを大層心配していた。リチャードの生活能力の低さも知っているため、細々こうして家の様子を見に来てくれるのだ。引き取ってすぐはまだリチャードに彼女がいたので遠慮していたようだが、忙しさから自然消滅したのを確認してからは遠慮なく足を踏み入れるようになった。
 ともすれば不貞を疑われかねない状況ではあるが、気が強いアンジェリカと正反対に穏やかで心優しい彼女の旦那・マックスはむしろ一人で留守番することの多いロドリグを彼女以上に心配してくれている。一時は心配が過ぎて毎日顔を見せる勢いだったので、アンジェリカにも自身の子供たちにも怒られていた。何故かリチャードとロドリグがフォロー役に回ったのも今となってはいい思い出だ。そんな彼も現在は落ち着いてきており、アンジェリカと同程度の様子見で済んでいる(ただしあくまで抑えているだけなので、以前ロドリグが友達と遊んでいた際に転んで泥と擦り傷だらけで帰って来た時は往来で悲鳴を上げて大混乱に陥っていたらしい)。
 ロドリグの誕生会にも来ることになっていることだし、その時に何か礼でもするか。そんなことを考えながら、リチャードは荷物を置いて手洗いうがいを済ませてキッチンに向かった。
 扉を開けた瞬間に温められたハンバーグとシチューの匂いに包まれ、仕事帰りに食事がある幸福感が胸にじんと広がる。コンロの前では台に乗ったロドリグが、ちょうど温め終わったらしいハンバーグをフライパンから皿に移している最中だった。その隣でシチューがコポコポと小さく沸騰していたのでおたまで軽くかき混ぜる。大きめに切られた野菜がごろりと踊った。
 ロドリグが真剣な顔でハンバーグにバランスよく添え物を置いている間にパンをダイニングに持っていき、飲み物を用意する。もう一度キッチンに戻る時に今度はわくわくした顔でハンバーグを運ぶロドリグとすれ違った。自分の脇を通り抜ける間その嬉しそうな顔を眺めてから、キッチンに戻る。
 戻ってきたロドリグに盛ったばかりのシチューの皿をひとつ任せ、今度は一緒にダイニングに向かった。特別会話はないが、スムーズに進む行動がなんとも心地いい。――なんて思う自分は疲れているのだろうな、とリチャードはロドリグに気付かれないように苦笑する。
 全ての準備を終わらせて二人は食卓についた。自分で作る日の方が時間はかかるのだが、匂いに散々焦らされていただけに今日の方が余計「ようやく」という気持ちになる。

「「いただきます」」

 食前の挨拶をして二人は夕飯にありついた。一口目からすでに幸せになりながら、それぞれ今日あったことをちょこちょこと話し出す。ある程度会話が進んでから、ロドリグは「そういえば」と話を変えてきた。

「僕も何かお手伝い出来ることありませんか? ……あの、僕の、誕生日会」

 控えめに問われ、リチャードはふっと笑って持っていたパンを皿に置き、ゆっくりとロドリグの頬に手を伸ばす。そして

「お誕生日様がやるのはせいぜい招待状書くだけだよ馬鹿野郎。終わってんだから大人しくしとけ」

「いひゃひゃひゃっ、いひゃいれすぅぅぅ」

 ニコニコと怒りを隠すように笑いながらその柔らかい頬を伸ばしにかかった。頬を抓るように引かれ、ロドリグは涙目で悲鳴を上げる。少しして離された時には幼い頬はすっかり赤くなってしまっていた。

「ったく、自分の誕生日でまで気ぃ遣ってんじゃねーっての」

「き、気を遣っているわけじゃなくて、その」

 頬をさすりながらロドリグは視線を落として口ごもる。どうした、と尋ねてやると、小さな小さな返答がよこされた。――リチャードに後悔を覚えさせるのに十分な返答が。

「こんな風に誕生日会を開いてもらえるのはじめてなので、僕も準備参加したいな、って。そう思って」

 しょんぼりするロドリグに、リチャードは完全に頭を抱える。何故彼の考えを決めつけてしまったのか。職場で培ったつもりの子供への対応力はまだまだ前途が長そうだ。
 リチャードはもう一度ロドリグに手を伸ばし、びくついた彼の頭を優しく撫でてやる。

「悪い、俺が間違ってたな。じゃあリビングの飾りつけ一緒にやるか」

 撫でながら提案すれば、ロドリグは直前が嘘のように明るい笑みを咲かせて顔を上げた。やります! と元気が返事がされたところで、リチャードも笑みをこぼす。頭から離した手で最後に頬を軽く撫でてやると、ロドリグはくすぐったそうに笑って肩を竦めた。やっぱりさっきのはちょっと早まったな、とリチャードはもう一度反省する。

「よし。詫びに俺のハンバーグを一口やろう」

 フォークの脇という無作法で切り落とした一口大のハンバーグをフォークの先に刺してロドリグに差し出すが、ロドリグは勢いよく身を引いて口の前で腕ごと×を作った。

「いいえっ、アンジェリカさんに先生の分は大人用の味付けだから子供は食べちゃ駄目だと言われたので結構です!」

 ああ、何やら香辛料が多めだと思っていたのは勘違いではなかったか。美味いが子供には辛くないだろうか、と心配していたのだが、ロドリグがぱくぱくと食べていたので勘違いだと済ませていた。どうやらアンジェリカの気配りがここにもあったらしい。

「そうしたら……ああ、そういえば」

 差し出していたハンバーグを自分の口に収めてから立ち上がり、リチャードは口を動かしながらキッチンに向かう。ややあって戻ってきた彼は特に何も持ってはいなかった。けれどその表情は明るい。

「冷蔵庫にこの間貰ってそのままだったチョコ菓子あるから、飯ちゃんと食い切れたら食っていいぞ」

 デザート! ロドリグの目が今日一番輝く。ちゃんと食べます、と元気に宣言したかと思うとロドリグは再び食事を再開した。それでも食事速度は変わらずマナーは最低限守られている辺り、流石はエリオット家の息子といったところだろうか。
 手伝いの許可が出て、ロドリグは楽しそうに友人たちから教えてもらった飾り付けについてを話し始める。久々の少し辛めの刺激を楽しみながら、リチャードは穏やかな視線でその話に耳を傾けた。

 ロドリグと手伝いに来たアンジェリカ一家と休みだった同僚数名の手を借りた結果、誕生日会の飾り付けは手早くかつロドリグの希望通りの出来となる。
 各所から協力を得て用意した料理類を机に並べ終えた頃に、ロドリグの友人たちが親に連れられやってきた。保護者としてよりは患者の親としての方が関わりのある面々とプライベートで会うと少し奇妙な感じがする。彼女たちが差し入れてくれた菓子類やジュースなども部屋の端に置いた机に並べていつでも出せるようにしておいた。
 開始時間を少しだけ過ぎた頃に最後の客が来たところで、ロドリグの誕生会は始まる。乾杯の音頭を慣れてないながらリチャードが行った。応じる声とグラスがぶつかり合う音があちこちから上がる中、アンジェリカ特製の大型ケーキが運ばれてくる。ロドリグを含めた子供たちからは大歓声が上がった。

「さぁ、ロドリグこっちおいで」

 アンジェリカに促されロドリグはケーキへと近付き、リチャードはこっそりと窓際に向かう。逆の位置で待機していた同僚と共にカーテンを手早く締めると、室内は薄暗くなり、灯されたろうそくの光が優しく目を輝かせるロドリグを照らした。
 マックスがバースデーソングを歌い始めると、部屋中から歌声が響き出す。リチャードも隣の同僚の声に隠れるような声量で斉唱に参加した。誰かのためにバースデーソングを歌うのは、子供の頃親にして以来かもしれない。
 歌が終わると、夫妻に促されロドリグが大きく息を吸い込み、勢いよくろうそくの火を吹き消す。沸き起こるおめでとうの声と拍手、クラッカーの音に合わせて、リチャードと同僚はカーテンを一気に引き開けた。溢れる光の中嬉しそうに頬を染めるロドリグを感慨深く見やっていると、すすすと年かさの同僚が隣に来る。

「(こんな序盤から感極まってたらもたないぞリック先生~)」

「(うるせぇ極まってねーわ)」

 小声でからかってくる同僚に眉を寄せた顔を向けて、リチャードは子供たちに見えないようにその脇腹に一発入れた。何しやがんだお前が何言ってやがんだとこっそりやり合っている内、夫妻によるケーキのカットパフォーマンスが始まる。商売用ではなく、彼女たちの子供たちを楽しませるために編み出したものなのだが、子供たちだけではなく大人たちにも大うけだ。終わらない内から拍手が巻き起こっていた。

「ほらリック、とっとと配膳手伝いなさい」

 切られたケーキが次々にアンジェリカの子供たちによって運ばれていく。それすらパフォーマンスの一環としてぼんやり眺めていたリチャードは声を掛けられすぐさまその一員に加わった。
 そうこうしている内に全員にケーキが行き渡り、最初の関門が過ぎ去る。リチャードはようやく自分の席に落ち着いて座ることが出来た。

「先生! このケーキすっごく美味しいです!」

 隣の席でケーキに夢中になっていたロドリグが熱心に勧めてくる。早く食べて、と促されるままにケーキを口に運んだ。子供向けにしているせいか少々リチャードには甘かったが、わざわざ口に出すほどでもない。

「ああ、美味いな」

 にこりと笑い返してやると、ロドリグは感情の共有が出来たのが嬉しかったのか満足げに笑ってケーキを食べ進める。その表情の輝かしいことときたら。眺めるリチャードの頬は自身が自覚せぬうちに緩んでおり、それを見かけた来客たちは「嬉しそうにしちゃって」とこっそりと笑い合うのであった。
 そこからは楽しい時間が続く。ケーキをはじめとした各料理を楽しみ、プレゼントを持ってきた面々が次々に渡していくと今度はそれに話題が移った。マックスがロドリグすら座れそうな巨大なクマのぬいぐるみを持って来た時は正気を疑い年齢と性別を勘違いしていないかとすら思ったのだが、ロドリグ本人は歓声を上げていたので文句は気力で飲み落とす。

「悪いわね、うちの旦那が。バレたら止められるの分かってたのかさっきまで秘密にしてたのよあいつ」

 隣に来たアンジェリカがこめかみを揉みながら謝ってきた。家を管理する身としてはあんな巨大な物の置き場どうするのか、という問題点が理解出来るらしい。

「あーー、まあ後々の処理に困りそうではあるが、マックスには世話になってるからな。多少は我慢するよ」

 でも巨大なぬいぐるみの管理の仕方は後で教えてくれ、と素直に頼めば、アンジェリカは苦笑しながら「調べておく」と言ってくれる。顔の広さでいえば、職業柄と人柄ゆえにリチャードの倍以上はありそうな彼女だ。きっとすぐに見つかるだろう。

「ところであんたは結局何あげるの?」

 リチャードが散々にプレゼントに悩んでいたことを知るアンジェリカは躊躇なく踏み込んできた。まさか用意してないんじゃないだろうなとジト目を向けられふいと視線を逸らす。

「秘密。時間になったらちゃんとやるってロドリグにも言ってあるから放っておけ」

 ともすれば逃げの言い訳にしか聞けない言い草だが、付き合いの長いアンジェリカは表情と声音からそれが言い訳ではないことにすぐに気付いた。それならいい、と笑顔で納得を示す。
 プレゼントでの大盛り上がりが落ち着くと、今度はゲームをしようと子供たちが言い出した。彼らが用意してきたのは大きな箱が二つに何枚もの小さい白紙とペン。曰はく、箱の一つに参加者の名前を入れ、もう一つに○○をする、という指示を入れる。それを引いていき、当たった人物が当たった指示を実行する。出来なかったらバツゲームを行う、というものだ。バツゲームも色々と用意してきているようで、いたずらっ子たちは爛々と目を光らせていた。
 全員参加が強制され、参加者たちはみな自分の名前を書いた紙を回収される。同時にひとり一つ以上指示を書け、ということだったので、主催者権限で変な物や危ないものは入れないようにと全員に向けて指示を出した。子供たちからは不満の声が上がったが

「文句あんなら次の検診で注射打つぞ」

 という小児科医ならではの発言でそれは沈静化する。
 そうしてゲームが始まれば、差した水などあっという間に霧散した。隣の人に何か食べさせる、もう一人引いてダンス、主役にハグ、今日一番美味しかったものを言う、特技を披露、四人引いて何か歌う。平和的なお題に、それでも参加者たちは笑って騒いで大忙しだ。ちなみに「目をつぶって食べたものを当てる」で激辛ソース(持ち込み)付きのサラダを食べさせられたマックスは床で撃沈していた。アンジェリカは大爆笑していたが、さすがにバツゲームでもなしにいたずらされたのを可哀想に思ったらしい実子の一人が牛乳を横に置いているので、復活したら飲むだろう。

「次はーーーリック先生!」

 主催の子供が取り出した紙に目を通してこちらに向けてきた。そこには確かにリチャードの名前が書かれている。周囲からは「面白いの引け」と念じる声が湧きあがった。よしお前ら後で覚えておけ。

「リック先生への指示はー……『近くにいる子供を次の回が終了まで抱っこ(子供同士の場合は手をつなぐ)』」

 比較的良心的か。近くにいる子供、とリチャードは視線を巡らせる。ゲーム開始時は隣にいたロドリグは今は別の場所にいるので――。

「ん?」

 一度過ぎ去った視線を少し戻した。その瞬間、同僚によって運ばれてきたロドリグがリチャードの真隣に降ろされる。ロドリグは赤い顔で硬直していた。

「何してんだお前」

「ロド坊がちょっとずつ近付いてるから運んでやったんだよ」

 にひひ、とからかうような笑みを浮かべた同僚は、ロドリグの頭をわしゃわしゃと撫でて元の位置に戻っていく。ちらりと視線をロドリグに向ければ、図星だったらしく先ほどよりも真っ赤になっていた。抱っこされたい、というのを友人も含めた大勢の前で明らかにされてとんでもなく恥ずかしいのだろう。あの同僚は子供好きだし子供にも好かれているが、こういう気遣いが出来ないところがある。
 これはこのまま続けていいのだろうか、と図りかねていると、突然周囲に子供たちが群がってきた。

「先生ロド君抱っこしないなら私のこと抱っこして」

「仕方ねーから俺が抱っこされてやるよ先生」

「私お姫様抱っこがいいなー」

「せんせーぼくもー抱っこー」

 自分が自分がと主張してくる子供たち。何でこいつらこんなに俺の腰を殺しにかかってきてるんだ。リチャードが小さな刺客たちに困惑していると、すっかり子供たちの一番後ろに回されてしまったロドリグが俯き小さな小さな声で呟く。

「…………僕、が…………」

 誰にも聞こえないかと思われたその声。しかし

「ロドがやるってー!」

 斜め前にいた少年が大きい声を出すと、事前に決めていたかのように――いや、実際に決めていたのだろう。子供たちはぴたりと主張を収めた。

「えー、しょうがないなー」

「でも一番近くにいたのロド君だもんねー」

 いやー、しょうがないしょうがない。わざとらしく言い合いながら子供たちは解散する。結局ロドリグだけが近くに残り、リチャードはいい加減観念した。

「よし、一ゲーム分だったな。現役小児科医の腕力見せてやるよ」

「わぁ!」

 ひょいと抱え上げられ、ロドリグはすっぽりとリチャードの腕の中に納まる。照れながら、それでも嬉しそうにロドリグはリチャードの胸に頭を預けた。そのぬくもりは、いつも感じているものと同じなのに、どこか違うあたたかさを感じた。
 さあ次のゲームを始めよう、という正にその瞬間。玄関ががむしゃらに叩かれる。ぎょっとした参加者たちが固まってしまった中、返事も待たずに誰かが中に入ってきた。それは――リチャード達が務める病院に勤める下働きの青年だ。
 青い顔をする彼を見てリチャードと同僚たちは真剣な顔をする。どうした、と聞くより早く、息を切らせた青年が叫ぶように口を開く。

「先生方急患です! 子供の集団食中毒が起きて、人手が足りません。院長からすぐに来るようにと。表の道に車を回してありますので乗ってください!」

 集団食中毒。危険な単語が飛び出し室内が一斉にざわついた。直後、ロドリグが何も言わずにリチャードの腕から抜け出し部屋から飛び出してしまう。

「ロドリグ!」

 慌ててその名を呼ぶが、ロドリグは振り返りも返事もしない。それだけリチャードが出ていかざるを得ないのがショックだったのだろう、と、そのことを責める者は誰もいない。代わりに、友人たちが数人その後を追いかけた。
 そちらは任せざるをえない。リチャードは苦い顔をして舌打ちして青年に視線を向け直す。

「状況は」

「小学校のイベントで、採った野菜を使って食事を作ったそうなんですが、そこで使った何かが悪かったみたいです。原因はまだ分かりませんが、食中毒の症状を訴えて倒れた子供が二十人を超えました」

「ああー、そういや今日南の地区の学校でそんなイベントやるって言ってたな……」

「今日のシフトじゃ確かに手が足りませんね」

「すぐに行く。荷物を持ってくるから先に」

「先生!」

 大きな声で呼びかけてきたのは、出て行ったはずのロドリグ。振り向くと、両手にリチャードの上着と荷物を持った彼が走って戻ってきた。後ろには何故か誇らしげな顔をしている友人たちが続いている。

「上着とお荷物です。財布、手帳、お仕事で使ってるノートが入ってるのは確認しました。どうぞ」

 持って来た物を差し出しながら、ロドリグは強い視線で真っ直ぐにリチャードを見上げてきた。先ほどまでの幼い微笑みが嘘のような、凛とした表情。

「ロドリ」

「先生が行っちゃうのは寂しいです」

 呼びかける言下に真っ直ぐにリチャードを見上げながらロドリグが言葉を紡ぐ。

「でも、苦しんでいる子たちを放っておいてまで僕と一緒にいてくださいなんて絶対言わないです」

「先生、ロドの奴さっき言ってたよ。『先生は絶対にみんな助けてくれる人だからすぐに行かなくちゃ』って」

「『きっとその子たちは楽しいことしてたのに、台無しになっちゃったんだから、せめて早く治してあげなくちゃ』とも言ってました」

 誇らしげに、友人たちはこの短い間にロドリグが口にした言葉をリチャードに伝えてきた。それを受け、リチャードは確かに感慨深さを感じて目を細める。
 ああ、この子は、やはり、エリオットの子だ。
 幼いのに、まだエリオット家としての在り方をはっきりと教育されたわけではないのに、彼はすでに、医療の大家が絶えず持つべき「人を救いたい」という気持ちを持っている。ならば――。

「――ああ」

 差し出されたものを受け取り、ロドリグの頭を強く撫でて、リチャードははっきりと笑みを落とした。

「任せろ。まるっと救ってきてやるわ」

 行くぞ。声をかけ、医者組はすぐさま家から出て行く。
 ロドリグがすでに医者の在り方を心に抱くのであれば、情けない背中を見せるわけにはいかない。彼の指標となるべく、凛と事態に立ち向かわなければ。
 ――いつか大きくなった時に、彼がこの背中を覚えていてくれるように。

 日付が変わるまで後一時間ほど。車に揺られながら窓越しに眺める町並みからは子供の姿が消え、飲み終えた大人たちが楽し気に闊歩している。昼頃から休憩なしにこの時間、と考えると長い気もするが、あの後さらに増えて三十人を超えた大人数を処置して日を跨がなかったのはむしろ早い方だろう。あまりの出来事に慌てた院長によって全従業員がフル動員され、全員が真剣に当たった結果だ。

「ドクターホーガン、着きましたよ」

 運転していた中年の男性に声を掛けられ、リチャードは隣の席ですっかり寝込んでいる同僚のことを頼み、礼を言ってから車を降りた。走り出す車を少しだけ見送ってから空を見上げる。

「どうすっかなー……」

 夜になって冷えた空気に、吐いた息と呟いた声が飲み込まれるように溶けて消えた。
 家まで戻ると、消えているだろうと思っていた電気が点いている。いつもなら少なくとも二時間は早く寝させているのだが……。まだ起きているのか、点けたまま寝てしまったのか、それとも誰かいるのか。どのパターンだろうと考えながら鍵を開けて家に入ると、ただいま、という声と被るようにロドリグが「お帰りなさい。おつかれさまです」と慌てて顔を出した。

「起きてたのか」

「ごめんなさい、気になっちゃって……例の子たちどうでしたか?」

 心配そうに問われ、リチャードは自信ありげな笑みを浮かべる。

「だーれに言ってんだ。全員なんとかなったよ」

 ガシガシとやや乱暴に頭を撫でてやると、ロドリグは心底ほっとした様子で笑顔になった。

「よかった……。あ、あの、じゃあ僕寝ますね。夜更かししてごめんなさい。えっと、お夕飯はアンジェリカさんのお宅でいただきました。先生の分はキッチンに置いてあります。それじゃあ」

「ちょい待ち」

 就寝時間の約束を破ってしまった負い目を感じているロドリグはそそくさとその場を辞そうとする。しかしそれを、リチャードは両脇の下に手を差し込んで持ち上げつつ留めた。わぁっ、と短い悲鳴を上げて目を丸くするロドリグに、リチャードはにっと笑みを閃かせる。決心は、今ついた。

「今日はもーちょっとだけ夜更かししていいぞ。遅くなっちまったが、誕生日プレゼントだ」

「わぁ……っ!」

 草原に寝転がり空を見上げ、ロドリグは感嘆の声を漏らす。視界を埋めるのは満天の星空。生まれて初めて、こんなに大きな星空を見た。

「今度流星群があるって聞いてな。その前にちゃんと空を見せておこうかと思ったんだ。どうだ、初の夜更かしと星空観賞は?」

「凄いです! 本ではみたことありますけど、実際に見ると、こんなに凄く広くて、凄く明るくて、凄く綺麗なんて」

 視線を空に向けたままロドリグははしゃぐ。視線は完全に星空に奪われていた。その横顔を眺め、リチャードは口元を軽く緩める。
 本当はもう少し早くに連れてきてこの時間には寝かせているつもりだったし、なんなら今日は流して後日に、とも思いながら帰ってきた。けれど健気に待っていた彼を思うと、どうしてももうひとつ喜ばせてやりたくなったのだ。心身ともに疲れ果てていたが、これだけ喜んでくれれば精神的には十分回復する。

「ロドリグ」

 呼びかけると、ようやく視線がリチャードに向いた。リチャードはその頭に手を当て、優しく撫でてやる。

「朝も言ったが、折角だからもう一度言っておくか。誕生日おめでとう。また一年、健やかに育てよ」

 目を細め願いを込めて告げれば、ロドリグはじわりと涙目になった。かと思うと、がばりと起き上がり、その勢いのままにリチャードの胸に飛び込んでくる。突然過ぎて心構えが出来ておらず「ごふぅ」と息とも声ともつかない音が口から漏れ出た。「お前なぁ……」と低い声が出るが、それでもお構いなしにロドリグはリチャードの首に縋りつく。

「先生、ありがとう!」

 満面の笑みで、ロドリグは声を弾ませた。首だけ上げていたリチャードはそれを見て息を吐きだし、結局再び頭を草原に下ろす。
 ああ、と返事をして、もう一度ロドリグの頭を撫でてやった。

 重い足を引きずって家に戻ると、まずは寝入ってしまったロドリグをベッドに寝かせる。衛生的に考えて色々アウトなのだが、今日はもう起こしてしまうのは可哀想だろう。風呂は明日入らせて、シーツ類も明日洗うことにした。幸い、振替で貰えた休みがある。
 自分もそうしようと思うが、せめて食事は済ませたい。手洗いうがいを済ませてリチャードはキッチンへと向かった。出かける前のロドリグの発言通り、夕飯が小さな鍋やフライパンに入って置かれている。それらを温めつつ先にパンをかじっていると、パンのかごの下に何かがあることに気が付いた。何だ、とそれを手に取ると、どうやらそれは手紙のようだ。封筒に「先生へ、ロドリグより」と書かれている。
 料理の伝言だろうか。何の気なしに封筒から手紙を出し、リチャードは中の手紙を読み進めた。
 そうして目が文章を追うごとに、リチャードの表情は真剣になり、じわりじわりと、湧きあがる感情に双眸にはうっすらと涙が浮かびだす。最後の一文まで読み切れば、リチャードは自分の目を手で覆い隠すことを耐えられなかった。

「……馬鹿、お前の誕生日なのに、俺が貰ってどうすんだ……っ」

 会えて良かったなんて
 あなたでよかったなんて
 一緒に居られて嬉しいなんて
 これからもよろしくなんて

「俺のセリフだっての」

 誕生会が始まった直後、同僚に早いと言われたが――感極まるのも、今なら十分なタイミングだろう。リチャードは言葉なく、顔を覆ったまま、その場にしゃがみこんだ。
 いつかは離れる日が来るだろう。けれどその日、その時、その瞬間まで。
 この幸せは、自分だけのものだ。

君よ健やかなれ