セザリス・エリオットの優雅なる逃避行

 セザリス・エリオットは疲れていた。上司の不祥事・部下の揉め事・暴れる患者に親戚からの見合い攻撃。これでもかという程に様々なことが短期間に起こったため、この数週間まともに休む暇がなかったのだ。濃い隈に女性ファンたちから悲鳴が上がり、周りを凍らせるような雰囲気と段々と悪くなっていく人相に部下たちが縮み上がった頃、流石に見かねた別の上司から休むように指示を出されてしまう。()()()()()で休みたくなかったセザリスだが、「このままだと部下たちの方が先にメンタルやられる」と言われては反駁(はんばく)するわけにはいかず、本日は1日だけ休みとなった。
 不在ということにして来客も電話も断り、使用人が用意した食事を堪能しつつ部屋で1人自由に過ごして気分もすっかりリフレッシュ――するはずだったのだが、世の中そんなに甘くない。

「…………寝たら、明日か…………明日から……また……駆け回ることになるのか……」

 両足を床に着いたままベッドの上に大の字になり、セザリスは深い溜息をつく。天井を見上げる双眸はかつてなく濁っていた。
 セザリスは決して仕事嫌いな男ではない。むしろ仕事は楽しいし、誇りに思っている。だがこの所の激務や精神的疲労はそれを凌駕する勢いで彼を疲弊させていた。それが分かっていたからこそ、セザリスは今回の休みについて渋ったのだ。そう、セザリスは分かっていた。この1日を休んだら――

「……………………休みが、足りない……っ!」

 ――自分の疲労に、どうしたって向き合わざるを得なくなってしまうから。
 今日一日は気遣い上手な使用人たちのおかげで快適に過ごせたが、故にこそ体はここぞとばかりに疲労を訴え更なる休息を求めてくる。だがどう足掻いたところで本日の残り時間は2時間で、起きる時間までは8時間だ。あとはもうその間にぐっすりと寝られることに賭けるしかない。昨晩は疲れすぎて逆に脳が興奮状態から下げられずあまり寝られなかったが、今夜こそは。
 意を決して部屋着からパジャマに着替えようと重い腰を挙げた。その時だ。開けていた窓から大きく風が吹き込み、レースのカーテンが音を立ててはためく。
 その瞬間、セザリスは大きく目を見開いた。ある。この短い時間でリフレッシュが出来るくらい休める場所が。現実的にはありえない、しかし確かに現実である場所が。
 思い至るや否や、セザリスは机に駆け寄り引き出しを開けると、鍵のかかる薄い箱を取り出した。それは()()()()()()の後、同じ場所に訪れていたマリアンヌ・ロダーが全員に作って渡したもの。セザリスは箱を机の上に置くと、窓や部屋の扉の施錠をしっかり確認する。それからまた机に戻ると、箱の鍵を開けた。それの中には、たった1枚紙が入っている。見る者が見なければ価値の分からぬそれを、机の上に出せば、紙の中央に描かれた魔法陣は薄ぼんやりと光を放っていた。
 紙の下部に書かれている文言通りに行動すれば、魔法陣からは強い光が放たれ、次の瞬間には、そこからセザリスの姿は掻き消える。
 セザリス・エリオットは、疲れていたのだ。

 ふと、意識が浮上する。眠りから覚めた感覚。眠っていたのか、と認識すると、続けて視界に入る木漏れ日を脳が認識した。外? どこだろうか。庭にこんな場所があっただろうか。そもそもいつ寝たのだろうか。そんなことをぼんやり考えていると、頭の斜め上から声がかけられる。

「目が覚めたか? お客人」

 落ち着いた低い男の声だ。随分間近に聞こえる、と微妙に寝ぼけたまま顔だけ上に上げ――セザリスは一瞬全ての思考を放棄した。そこにいたのは、セザリスを眺め下ろしていたのは、立派なたてがみの大きなライオン。

「っ!?」

 悲鳴も上げられずに飛び起きようとしたが、それは途中で止まってしまう。腰辺りが重くてうまく動けなかったのと、起き上がる途上に何かが胸の上からころころと転がったのに気が取られてしまったのだ。重さの理由は――セザリスを囲む何匹もの狼たち。胸から転がり落ちたのは猫のようだが、そんなことは今はどうでもいい。気が付けば肉食獣たちに囲まれている恐怖に固まっていると、後ろから先程と同じ声がする。と同時に、何か空気が動く気配がした。

「驚かせてすまん。取って食いやしないから落ち着いてくれ」

 とても冷静な声に、セザリスは心臓をバクバクさせながら、しかし何とか気を取り直してそっと背後に視線を向ける。直後、驚きに目を瞠った。
 そこにいたのは一人の男。片膝を立てもう片方を胡坐の形にして座っている、獅子のような黄土色の髪と目を持つ偉丈夫だ。この男をライオンと見間違えたのだろうか、と目を見開いたまま固まっていると、偉丈夫はふっと笑った。

「名は聞いている、セザリス・エリオット氏。俺はベルヴァ。確かジルダは知っているんだったな? 俺はあれと同じく人獣だ。種族は獅子になる。ここは風吹く宮の休息所の一つだ」

 ジルダ、というのは、以前この宮に来た際に出会った少女の名前だ。彼女(というか彼女の紹介をしたアラン)は彼女をこの偉丈夫が名乗ったように「人獣」と呼び、その名を持つ者が人の姿にも獣の姿にもなれることを、そしてその存在は彼らの世界では差別の対象だということを教えてもらった。
 そしてその時に、ジルダという少女が体の一部を獣化して見せてくれたことも思い出す。記憶違いでなければ、その時の彼女にはイヌ科の耳が生えたはずだ。であれば――。

「もしや、この狼たちも人獣だろうか? ……記憶にある色味的に、その小麦色の毛並みの狼がジルダ君か?」

「おお、前回来てからそれなりに時間が経っているのによく覚えていたな。そうだ、ここにいる狼たちは皆人獣で、小麦色の狼がジルダだ。ちなみにそこの猫は全く別の世界の住人なのでよく知らん」
 顎で示されたのはセザリスの胸から転がり落ち、その後転がり落ちた先でそのまま寝ている成猫サイズの茶色い猫。目は断固として開けないままだが起きていたらしく、「俺ガルシアねー。人獣じゃないけど俺も人にも獣にもなれるよー」とだけ答える。少しだけ続く言葉を待ってみたが、喋る気がないらしく動かなかったのでセザリスはまたベルヴァに視線を向けた。

「これはその……どういう状況だろうか? いつ寝たのかも……いつ着替えたのかも覚えていない。自室で寝る直前に『風吹く宮に行こう』と思って実行したまでは覚えているんだが――」

 見回した室内は円形をしており、(恐らく)普通の壁に植物を編んだ物が壁紙代わりに打ち付けられ、天井はガラス張りになっている。部屋の柱――を隠すように円周上に植えられ天井に枝を広げて木陰を作っているのは本物の木のようだ。本物だ、と気付いた時には手入れの素晴らしさに素直に感心した。見苦しい伸び方もしていなければ床に葉のひとつも散っておらず、当然かもしれないが虫もいない。この宮ならではの摩訶不思議技術が使われているのかもしれないが、そうだとしても素晴らしい状態だ。
 セザリス含めこの部屋にいる全てがいるのは恐らく元々複数人で寝ることを前提とした高さの無い巨大な円形のベッドで、囲むように紗のカーテンが波を描いてかけられている。緑も光も邪魔しないように設計されているらしい。マットレスはふかふかとした感触が心地よい。脳が目覚めた今でも降りがたいと感じるほどだ。
 そしてセザリスが今着ているのは、最後に自分で着た記憶のある部屋着ではなくアラビア風の豪奢な衣装。もちろんながら着替えた覚えはない。
 分からないことだらけなので、セザリスは素直に状況を確認する。間違いなく風吹く宮であるようなので警戒することは特にないのだが、ここで寝る直前の記憶が全くないのが単純に不安だった。主に自分が何かやらかしていないかが。

「ん? 記憶がないのか? まあ確かに、寝る前の様子と比べると随分理知的な印象が出て来たな」

 不安を煽らないでくれ頼むから。

「そうだな……正直俺は途中から合流したので最初の頃の話は分からないんだが――受け入れる覚悟があるなら()()()()()()?」

 にまり、とベルヴァはからかうような笑みを浮かべる。見せてやるとはどういう意味か。問おうと開きかけた唇はすぐに閉じられた。ここはセザリスの住む世界ではない。魔法もあれば人外もいる何でも空間。彼が今からやろうとしていることを聞いたとて、セザリスの常識で理解出来る理由とは限らない。ならば、問うだけ無駄であろう。
 是と言うのも怖いが、否と言うには不安が勝った。セザリスが幾巡かの逡巡を越えて「頼む」と消え入りそうな声で頼むと、ベルヴァは「頼まれよう」と膝を叩く。

「――『我が名に従え。真実見抜き暴け』――」

 唱えられた言葉と共に、ベルヴァから金色の光が発せられた。そして

「『真実を見抜く瞳(アイズ・オブ・トゥルース)』」

 呼びかけと共に、黒い大きな球体が現れる。中央に大きな目をひとつ持つそれは、「エリエリ」とベルヴァに呼びかけられると同時にセザリスを視界に入れ、ぱちりと目をつぶった。その瞬間、セザリスの視界は暗転する。

『ようこそいらっしゃいましたセザリスさん!』

 元気よくセザリスを迎えたのは前回の訪問で随分と懐かれた案内人のアランだ。駆け寄って来る姿の純粋なこと。まるで子犬を見ているような錯覚に陥る。――陥ってしまった。

『今セザリスさんたちの世界の時間夜でしたね。何かありまし』

 たか、と続くはずだった言葉は唐突に止まる。手が届く範囲に入った途端、セザリスの手がぽふりとアランの髪に埋まったのだ。前回の訪問時にセザリスと親しくなったと自信のあるアランだが、再会後開口一番もない状態での最初の行動が「頭を撫でる」になるとは思わず思わず固まってしまう。背後には理解が追い付かないために宇宙が広がっていた。

『…………癒し…………』

『癒し!? ど、どうしましたセザリスさん? お疲れですか??』

 あっという間に撫でる手は両手になり、アランは最早完全に犬のように左右からもしゃもしゃとされている。

『何事ですかアランさん――おや』

『謝さぁぁん、セザリスさんがなんか様子変なんですけどーー!』

 移動の間の扉の向こうから管理代行人の謝がそっと顔を出した。顔見知りの出迎えということでアランに任せていたが、何やら騒がしい、と中を覗いた所この状況である。流石の謝の表情も少しばかり動いた。何せ前回訪問時の紳士的対応ナンバーワンだった男がこの有様だ。謝は室内に入ると足早にアランとセザリスに近付く。

『セザリス様、如何がなされましたか?』

 顔を覗き込みながら尋ね、すぐに謝はセザリスの異常の原因に察しがついた。

『これは――随分お疲れのようですね。お顔の色がよろしくない。隈も随分と濃く出ていらっしゃいます……。元々お疲れだったところに移動の負荷もかかってしまったのかもしれませんね。セザリス様の世界は空間移動の概念がありませんので、多少とはいえ負荷がかかってしまうのです。普段なら大した負荷ではないのですが――』

『えっ、やっぱりお疲れでした!? と、とりあえずどこか部屋にお通ししますねセザリスさん! まだ歩けますか?』

 慌ててアランがセザリスに声をかけるが、セザリスの表情は抜け落ちるばかりで、返答もなくアランの頭を撫で続けている。時折『モフ』やら『ふわ』やらの単語が漏れ聞こえてきて、ここにいるのが真面目な2人でなければホラー扱いされていたかもしれない。

『これはご自身の足で歩くのは難しそうですね。アシスタンツを』

 宮で働くスタッフ(通称アシスタンツ)を呼ぼうと謝が手を鳴らそうとしたその瞬間、軽やかで断続的な駆け足の音と共に何かが移動の間に駆け込んできた。その小さな小麦色の塊は、入って来るや否やあっという間にセザリスの足元に近付き、パタリパタリと緩やかに尻尾を振りながら後ろ脚で立ってセザリスの長い足に添うように体を伸ばす。

『いら、しゃい』

 闖入者の正体は狼の人獣であるジルダ。狼姿でやってきたところを見るに、鼻か耳でセザリスの来訪に気付いて駆けてきたのだろう。前回の来訪時、彼女もセザリスと少しばかり交流していた。
 ジルダに気が付いたセザリスはゆっくりと視線をそちらに向け、愛くるしい本物の毛玉がいることに衝撃を覚えたようだ。そっとアランから手を放し、振り向いた時と同じゆっくりとした動作でしゃがみ込み、同時に足を下ろしていたジルダの顔を両手で撫で始める。サイズ差があるためかアランにしていたよりも少しばかり力加減が弱く見えた。

『今がチャンスですね! おれ部屋用意してエドナ姉さんに点滴準備してもらってきます』

 エドナとはミルトン家の長女でこの宮の医療担当だ。仕事の出来る男を目指すミルトン家末っ子は謝の返事もそこそこに移動の間から飛び出していく。仲良くなった相手ということもあってなおやる気が出ているのかもしれない。

『ジルダ―。何してんだー?』

『知らない匂いするけどお客さん?』

 アランが飛び出してから入れ替わるようにやってきたのは白いツンツン髪の少年と黒い長髪の少女。アロルドとオルテンシアという名前の人獣で、ジルダ同様ジェンティーレという少女を主としている。オルテンシアが両腕で抱えているのはジルダが獣状態になる時に脱ぎ捨てていった彼女の服だ。獣状態になると服が千切れてしまうことは多々あるが、ジルダはまだ小さいので破けずに済んだらしい。

『アロルド様、オルテンシア様。彼はセザリス・エリオット様。以前にもこの宮にいらっしゃったことのあるお客様です。その際にジルダ様も少しだけ面識があったとのことで、今回お迎えいただいたようです』

 謝が軽く説明すると、ジルダからも『トマス、の、お友達』と補足が入った。トマス、と聞いてようやくアロルドたちは彼がいつの客なのかを思い出したらしく、『あー』と揃って声を挙げる。

『あたしが挨拶出来なかった人の内のひとりだー。だから知らなかったんだ』

『オイラはチラッと見ただけ。……けど、ちょっとだけロドリグに匂い似てるな。兄弟か?』

 すんすん、とアロルドが鼻を揺らした。貴族らしい品の良い香りしか謝には分からないが、狼の人獣である彼の嗅覚はただの人間である謝より何倍も鋭い。彼の言う通り、どこかしら弟であるロドリグと似た匂いがするのだろう。その通りです、と謝が肯定する横で、オルテンシアがそそそっとセザリスと撫でられ続けているジルダに近付いた。

『ねえねえ、何でジルダ撫でられてるの?』

『わかん、ない。でも、モフモフ、したい、みたい』

『そうなの? じゃああたしも撫でてくれるかな』

 ぶるっと体を震わせると、オルテンシアは獣寄りの人型姿に変わる。服がミチリと音を立てるが、ギリギリで破れてはいない。ワクワクした様子でそっと頭をセザリスに近付けると、そちらに視線を向けたセザリスは今度は彼女の頭をわしゃわしゃと撫で始めた。サイズが大きくなったからかジルダにするよりも力が強そうだが、健康的に育っている狼なのでオルテンシアはびくともしない。どころか、楽しそうにジルダよりも激しく尻尾を振っている。

『アロルドも来る―?』

『やーだよ。オイラ初対面の人間に撫でさせてやるほど甘っちょろい男じゃない』

 べーっ、と舌を出すアロルドから、オルテンシアはもったいないんだからと腹も立てずに目をそらす。オルテンシアは、ジェンティーレの人獣の中でも最も人好きな性格をしていた。撫でられるのももちろん大好きだ。一番は当然主であるジェンティーレなのだが、「可愛い可愛い」と撫でてくれる人は誰でも大好きである。もちろん、この客人も例外ではない。何だかぼんやりしているし真顔のままだし口から出る言葉は『もふもふ』『ふわふわ』『癒し』くらいなのだが、それでも撫でる手には「可愛がりたい」という意思が感じ取れた。
 オルテンシアが嬉しそうに撫でられていると、物足りなくなったジルダが再び後ろ足で立ってセザリスの片手に両前足をかける。気付いたセザリスは表情を変えぬまま片手をジルダに明け渡し、ふたりをわしゃわしゃと撫で始めた。あまりに楽しそうな同輩たちの様子にアロルドがそわそわし出した頃、部屋の準備が出来たアランが移動の間に戻ってくる。後ろには担架を担いだアシスタンツが4人おり、運ぶ準備もばっちりだ。

『お部屋の準備整いましたー!』

『オイラは何も思ってないからな!』

『えっ? はっ、はいそうですね!?』

 眉根を寄せ少し赤くなりと謎の言い訳をしてきたアロルドに疑問を覚えつつその脇を通り抜け、膝をついて狼たちを撫で回しているセザリスの横にアランは同じく膝をついた。

『セザリスさん、お部屋にお連れしますのでこちらの担架に』

『癒し……』

『うぅ、セザリスさんの癒しになれているのは光栄なんですが心配なんで本当にそろそろ休んでください……』

『これは――つるすべ……っ! そしてぽよもち……っ!』

『ピャッ!? ピャ、ピャピャー?(えっ!? そ、そうですかー?)』

 またアランを撫で始めたセザリスは、心配そうに近付いてきたアシスタンツのひとりにも手を伸ばす。頭を触った瞬間の触り心地に驚愕を覚えたようだ。手触り品評会の審査員のような真剣な顔でアシスタンツたちの触り心地を比較し始めた。
 うん。そろそろ本当に回収しよう。この場に見下す性分の者がいないのを理解したうえで、そろそろ止めないとセザリス・エリオット陸軍少将の威厳が地に落ちかねないと判断し、アランは強制的な回収を心に決める。元の性格的に無理やり担架に乗せたところで暴れたりはしないだろう。何ならオルテンシア辺りに隣に歩いてもらって片手を毛並みに埋めておけば大人しく運ばれてくれるかもしれない。

『いたいた。お前ら戻ってこないでどうしたんだよ?』

『ずっと移動の間にいるから何かと思えば……客人かね? 随分面白い状況になっているようだが』

 声をかけて入ってきたのはこれまたジェンティーレの人獣であるレネオとランベルトだ。それから少し遅れて特に何を言うでもなく普通に入ってきたのは獅子の人獣・ベルヴァで、気が付けば部屋が人獣だらけになっていた。

『皆様お揃いで』

 謝が声をかけると、ベルヴァにレネオとアロルドが稽古をつけてもらっており、オルテンシアとジルダがその見物をしていた、とランベルトが教えてくれる。ランベルトは群れの子供たちに獅子が余計なちょっかいをかけないように見張っていたと笑顔で言うので、疑っているとはっきり言われたベルヴァよりも後ろで聞いていたアランの方が笑顔が引きつってしまう。

『ところでどういう状況だ?』

 ベルヴァが顎をさすりながら眺めているのは、手触り品評会審査員のセザリスと勝手に参加者にされているアシスタンツ、いつの間にかエントリーしていたオルテンシア・ジルダの様子。

『現在の状況としましては』

 謝が簡潔かつ明確に状況を説明すると、ベルヴァは『ならば』と大股でセザリスに近付きひょいと肩に担ぎあげた。

『運べばいいわけだな』

『あーーベルヴァさん待ってくださいお客様なので運んでくださるならもっと丁寧に!!』
 慌ててアランに制止されたので、ベルヴァは少し考え持ち方を変えてみる。曲げた前腕部に腰を乗せ、上半身を曲げさせ自身の頭にもたれさせた。セザリスも高身長だが、同じく高身長で筋肉の多いベルヴァなので不安定な要素はない。ない、のだが、不満はあるようだ。持たれた側に。

『……筋肉(ムキムキ)は、お呼びじゃない……っ!!』

 とんでもないしかめっ面をしてセザリスはベルヴァから離れようとする。癒しを求めている男に勇ましい固さは不愉快だったようだ。しかし解決策などすでにベルヴァは持っている。何故なら彼も人獣だ。

『分かった分かった。ならこれでどうだ?』

 獣寄りの人型姿に変じると、セザリスは再び審査員の顔になった。短い毛並みのため狼たちのようなもふもふ感はないが、それなりに柔らかい。立派なたてがみは場所によって触り心地に違い、ふわりとした場所もゴワっとした場所もパサついた場所もある。――総評として。

『――モフ度は低いが、貴重な体験』

 ということで、大人しくなった。
 今がチャンスとアランの先導でベルヴァが歩き出すと、仕事のためにアシスタンツが続き、行先が気になったオルテンシア・ジルダが続き、群れの本能でレネオとアロルドが続くと、笑いながらため息をつきランベルトもそれに続く。一人残った謝は胸に手を当て頭を下げてそれを見送った。

 その後、移動の行列を見かけたエイラが半分寝ているセザリスに絵師の本能を刺激されたと列に加わり、部屋に着くや否やその本能を爆発させる。
 まず最初に魔術絵師(マジックペインター)の力でアラビア風の衣装を出しパジャマと偽ってセザリスに差し出した。通常のセザリスでは断られるだろうが、今はそんなことを判断する力はなく、出された物を素直に着用する。セザリスによく似合う上品な、しかしさりげなく露出もしているそれの見事な着こなしぶりに、エイラは大変満足した様子だ。
 それから大きなベッドの上に獅子に姿を変じさせたベルヴァを横たえさせ、そこに寄りかかるようにセザリスを座らせ、さらに狼に変じたオルテンシア達も囲むように座らせ寝転ばせた(アランにも小姓役をお願いするがそれは丁重に断られてしまったので諦めた)。小物をあれこれ出せば、あっという間に王の寝室という風情(ふぜい)に部屋が様変わりする。

『きゃーっ! イケメンと動物たちって最高!! ちょっと待ってね! すぐ描き終わるから!!』

 言うが早いかエイラはキャンバスを出現させ、神速の筆さばきで絵を描き進めた。そして、待てが苦手なレネオとアロルドが呆れる前に、無事に目的を果たす。

『見て見て! 最高の出来!』

 描き終わった絵を協力者たちに見せると、それぞれから感心の声が上がった。残念ながら唯一絵の造詣の深い者はすでに意識を飛ばしているため出てくる感想は「凄い」「上手い」程度なのだが、エイラとしてはそれで十分だ。
『じゃああたしこれ他の人たちにも見せてくるね! 協力ありがとう! おやすみ!』
 よほどテンションが上がっているのか、出したキャンバスをそのままにエイラは部屋から出ていく。一瞬空気がしんとなると、見計らったように開きっぱなしのドアがノックされた。

『失礼。入っていいかしら?』

 顔を覗かせたのはリムレスの眼鏡をかけた知的な雰囲気の白衣の女性。くすんだ金色の髪は綺麗にまとめられ、青い双眸は吊り目気味だが優しさを宿している。ミルトン家の長女、エドナだ。後ろには点滴スタンドを押すアシスタンツを従えていた。

『どうぞ。今寝ちゃったんだけど大丈夫かな? ……あと、さっきエイラさんがこの服に着替えさせちゃったけど大丈夫かな……?』

『寝ながらでも点滴は出来るから大丈夫よ。服も……まあ、生地は柔らかいようだし寝る邪魔にはならないでしょう』

 アランが迎えると、エドナはすたすたと部屋に入りベッドサイドの机に救急箱を置いた。アシスタンツが小物を()けている間に手早く準備を進めると、セザリスの服の袖をめくりあげ、躊躇なく針先を腕に刺す。若い人獣たちが悲鳴を上げるが、エドナはそんな彼らににこりと笑顔を向けた。安心させるためなのだと弟のアランは理解しているのだが、知らぬ者が見たら逆に怖いということを姉は知らない。
 姉から視線を逸らし、アランは改めて人獣たちに向き直る。

『皆さんお付き合いいただきありがとうございました。もうお戻りになっても大丈夫――なんですが、ベルヴァさんはあの、すみません』

 すっかり体の力が抜けているセザリスはベルヴァを敷物にして寝付いてしまっているし、エドナも特に確認せずその状態のまま点滴を始めてしまった。これでもうベルヴァはこの部屋から動けない。

『あら? いやだごめんなさい。てっきり一緒に寝るのかと……一度外しますね』

 あまりのリラックスぶりにそういう話になっている物だとばかり思っていたエドナは口元に手を当て驚き、次いで申し訳なさそうな顔をする。すぐにセザリスに手を伸ばしたが、ベルヴァはそれを留めた。

『構わん。俺もそろそろ眠くなってきたから、今日はこのまま寝させてもらおう。獣姿ならこの男もそう気にしないだろう』

 言うが早いか、ベルヴァは腕を組んでその上に頭を乗せる。そのまま目を瞑ってしまったので、本当にここで寝るつもりらしい。元の世界の人間は人獣たちへの扱いからあまり好んでいないベルヴァだが、別世界の人間、しかも前後不覚とはいえ人獣であるオルテンシアたちを可愛がっていたセザリスにはそれなりに気を許したようだ。

『わたしも、お泊り、する』

 倣うようにセザリスの腰に寄り添い丸くなったのはジルダだ。目を瞑り「もう動く気はないぞ」とばかりの様子を見せる。末っ子がお泊り宣言をしたものだから、若い狼たちがこぞってそわそわし始めた。彼らは「お泊り=普段と違う場所で寝る=なんか楽しい」という認識でいる。

『あ、じゃああたしもここで寝るー!』

 言うが早いかオルテンシアはジルダとは逆側で丸くなった。すでにセザリスに相当構ってもらったので彼女たちに躊躇はない。レネオとアロルドも「自分も」と言いたげにしているが、レネオは全く関わってない状態だったので、アロルドは単に恥ずかしくて言い出せずにいる。それに気付いたランベルトはしばし考え、「仕方ないか」というように頷くとジルダの横、セザリスの頭寄りに転がった。さり気なくジルダとベルヴァの動線を切っていることに気付いたのはちらりと横目で見たベルヴァだけだろう。

『娘2人だけでいさせるわけにはいかないからな。私もここで寝るとしよう。お前たちはどうする?』

 問えば、レネオとアロルドは表情を一気に明るくした。笑う犬が可愛いのだから笑う狼とて当然可愛いだろう。脇で見ていてたミルトン姉弟は思わずきゅんとしてしまった。

『じゃあ俺もお泊りする!』

『しょーがないなー。ランベルトひとりじゃお子様3人の面倒は大変だもんな。オイラも手伝ってやるよ。しょーがないから!』

 ワクワクした様子でレネオはオルテンシアの隣・ベルヴァ側に、アロルドはランベルトとは逆のジルダの隣に丸まる。

『アラン、すまないがうちの主に我々は今日こちらに泊まると伝えてくれるかね?』

『承知しましたランベルトさん。それでは、おれたちはこれで。おやすみなさい』

『私は点滴が終わった頃にもう一度来ますね。起こしてしまうかもしれませんが、そのまま寝ていてくださって結構ですので。では、おやすみなさい』

 おやすみ、という人獣たちからの返事を受けて、ミルトン姉弟とアシスタンツは部屋から出ていき、室内の電気は落とされた。
 それからしばらくして予告通りにランプを片手にエドナが点滴の回収にやって来る。何故か一緒に猫姿のガルシアもやってきて素知らぬ顔で一緒に寝始めたところで、翌朝の完成形が形作られた。
 作業を終えたエドナの姿が扉の向こうに消えたところで、世界は再び暗転する。

 真実を見終わらせ、エリエリと呼ばれた存在は姿を消す。それを見上げながら見送ってから、ベルヴァは客人へと視線を向けた。

「――という経緯だったようだ。大丈夫か、セザリス氏?」

 笑いを含んだ気遣いに、セザリスは言葉を返せない。その顔は両手で覆い隠されているが、耳まで真っ赤になっている。

「………………殺してくれ………………」

 何なら恥ずかしすぎてそのせいで死にそうだ。いい年の男が、陸軍少将の地位に立つ男が、エリオット家の次期当主たる男が、モフモフだのふわふわだのつるすべぽよもちだのと言い募っている姿を人に晒すなど。

「はっはっは、まあ旅の恥は?き捨てというものだろう。そう気にするな。俺も含め昨日の件を目撃した者は誰も気にしないさ」

 豪快に笑って背中を叩かれるが、恥ずかしさは消えてくれない。今日アランとどんな顔をして会えばいいのか――と考え、それ以前にすでに顔を合わせている者にようやく意識が向いた。セザリスは赤い顔を歪めたままベルヴァと顔を合わせ、頭を下げる。

「昨晩は諸々大変失礼した、ベルヴァ殿。運んでくださって感謝します」

「律儀な御仁だ。気にしなくていい。そんなこともある」

「すまない……アランもそうだが、レディたちにも申し訳ないことをした」

 記録を見たので、ジルダだけでなくどの狼が誰なのかも把握出来ていた。彼の視線が順に向いたのはまだすやすや寝ている狼の内の小麦色の狼と黒色の狼。

「無理やり触ったのではなく子供たちが自ら撫でられに行ったのだ。そう気にすることはない、セザリス殿」

 落ち着いた老人の声。それが誰なのか分かっていたので、セザリスは肩付近で寝ていた灰色の狼に視線をやる。灰色の狼――ランベルトはいつの間にか目を開けていた。起き上がらないのはジルダが寄り添ってまだ寝ているからだろう。

「むしろ私の群れの子供たちに優しくしてくれたことに礼を言うよ。ありがとう。記録を見たなら知っているだろうが、ランベルトだ」

「お心遣い感謝する、ランベルト殿。だが、彼女たちが目覚めたら一応謝らせてもらってもいいだろうか?」

 頭を下げてから、セザリスは揃えて上を向かせた指先をジルダとオルテンシアに順番に向けた。本当に律義なことだ、と小さく笑ってから、ランベルトはその申し出に許可を出す。恐らく謝られたところでふたりとも不思議がるだけだろうが。

「しかし、急に来てしまったのにいい部屋をあてがってもらって申し訳ないな。宮の方々に礼を述べたら帰るか……」

 散々モフモフふわふわつるすべぽよんを味わったので、昨晩部屋にいた時よりも大分頭も心もすっきりしている。まだ休み欲は解消しきっていないが、これ以上は贅沢というもの。そう思いながらセザリスが呟くと、左右から「おいおい」「まだ寝ぼけているようだ」と呆れた声がかけられた。
 何事かと少し驚いた顔で左右に視線を投げると、精悍な男と老練な狼はにやりとする。

「ここで過ごした時間などお前の世界ではまだ数分しか経っていないらしいぞ?」

「休みに来たのだろう? 時間はまだたっぷりあると思うがね?」

 言われてセザリスは何故自分がここに来ようと思ったのかを思い出した。そう、この宮での時間とセザリスの本来の世界には時間差があるが、一晩過ごしてもせいぜい数分程度の差しかない。セザリスはそれを前提に今回の逃避行を実践したのであった。つまり――存分に休暇欲が満たすことが出来る。気付いた瞬間セザリスは思わず拳を握り締め小さくガッツポーズをしてしまっていた。
 セザリス・エリオットの優雅なる逃避行はまだまだ終わらない。

 翌日の陸軍本部では、一昨日前まで地獄の死者のような様相だったセザリスがすっきりリフレッシュした状態で現れたことで、平和を取り戻すことになる。なお、レオンからその噂を聞きつけた勘のいい弟に問い詰められたので正直に白状した所、「兄さんだけずるいです!」と文句を言われることになった。

セザリス・エリオットの優雅なる逃避行