今更ながら、失敗だったと思う。彼女があれだけ怒るのも無理はない。
ロドリグは深い息を吐いた。そして、ひりひりする頬をさする。
「どうしましょう……」
自分をフォローする言葉がひとつも出てこない現状は、ただただ彼を悩ませた。
*** *** ***
彼女――――マリアンヌと
「ねーねーエリオットさん、明日暇?」
何か期待しているような眼差しを受け、ロドリグは柔らかく微笑んだ。
「暇ですよ。どうしました?」
「ほんと? じゃあ明日朝10時にうちに来て。あ、出かけるからちゃんとしてくるんだからね。あたしが作ったやつ着てくんならパジャマでもいいけど」
むしろそっちを希望していそうな爛々とした眼差しにロドリグは微苦笑を浮かべる。
「ちゃんとしていきますよ。10時ですね? 分かりました」
いつもは休日なんて関係なく働いている。しかし働きづめなのを周りが気遣ってくれて明日からの5日間は久しぶりにまともな休みが取れることになったのだ。年の瀬の迫る忙しい時期なので何度も断ったのだが、実習生にまで「どうぞお休みください」と言われてしまい結局休みを取ることになった。
だが忙しいのが普通になってくると「欲しい」と思った休日もいざそうなると使い方を忘れてしまう。何をして過ごそうかと迷っていたところだったので、今回のマリアンヌの誘いは大変ありがたかった。
そのあと指きりまでさせられたこの約束を交わしたのは昨日の昼前のこと。しかし、そのあとの出来事がこの惨事を招くことになる。
「――――まさか、あのあと急患が5件も続くなんて思ってもみませんでした……」
午後に入って2件。落ち着く間も無く続けて3件。気が付けば時間は翌日の午前4時。さすがに体力の限界が来て仮眠室で休んだのは午前5時。そして目が覚めたら時計が指すのは午後2時過ぎ。およそ9時間も寝てしまった。その時間の経ちように意識が飛んだのは数秒。
「ななな、何で誰も起こしてくれなかったんですか?! というかこのベッドは? それにこの快眠グッズの数々は一体!?」
その身があるのは仮眠室用の質素なベッドではなくどこからか持ち込んだのかふかふかの大きいベッドの上。かかっていた毛布は仮眠室のごわごわしたものではなく羽毛の柔らかさを誇る高級品。枕だって低反発。
さらに周りには寝る前にはなかったはずのアロマや音楽という勢ぞろい具合。
これで驚くなと言う方が無理である。
困惑どころか驚愕しているロドリグの問いかけに、仮眠室用の質素なベッドの上に腰かけコーヒーを飲んでいた若い青年が誇らしげに答えた。
「皆で持ってきたんです。エリオット中佐には皆お世話になってるし、お疲れだったので。それに『連休はありがたいんですが何をしてましょうね』って言ってましたよね? 用事がないなら寝かせてあげようって話になったんです」
「あ、ありがたいんですけどそれは昨日の午前中までの話で……ああ! 約束がっ!!」
しわくちゃの服と寝癖のついた髪を直している時間すらないのにここで説明をしている時間なんてもっとない。ロドリグはベッドから飛び降りると一目散に仮眠室を飛び出した。この時しっかり礼を言っていく辺りが彼らしい。
早駆けの馬車を使ってロダー家の門前にたどり着いたのはそれから30分後だった。馬車の中で最低限の身だしなみを整えたので門前払いはされないだろう。そう思いながらも内心どきどきしながら正面玄関に向かった。
出迎えてくれたメイドの女性に引き連れられ、向かった先はマリアンヌの部屋だ。
彼女の上司だということ、何度もお呼ばれしたことがあること、そして何より名門エリオット家の名がロダー家から疑念は邪推を取り外す役に立ってくれることをこの時ほどありがたく思ったことはない。おかしな取調べがないので余計な時間をかけずに彼女の元へ行くことができた。
「それではわたくしはこれで」
「はい。ありがとうございました」
案内してくれたメイドに頭を下げ返して見送ってから、ロドリグは1度深呼吸してドアをノックする。恐らく烈火の如く怒っているだろう。怒鳴られるのや
「どなたですか?」
問い返してきたのは彼女専属メイドでロドリグにとっては幼い頃の友人である彼――の
「こんにちは。エリオットです。マリアンヌはいますか?」
「…………おまちください」
妙な間があったが気付かないロドリグはとにかく謝る言葉を心の中で何度も繰り返して唱えた。どんな理由があろうと遅刻は遅刻。まずは誠心誠意謝らねば。そう心に決めていた。
ややあって扉が開くと、その向こうからマリアンヌが顔を覗かせる。ロドリグは目の前まで来たマリアンヌに何度も心の中で練習した言葉を告げようと頭を下げながら口を開いた。しかし、それが言葉になることはない。
最初に言葉を止めたのは俯き加減だった顔が勢いよく上げられた時に空に舞った涙の粒。怒った顔。それに驚いている間に思い切り振りかぶった手に更に行動を止められてしまう。
そして、ほんの一瞬の躊躇もなくその手は
「帰れっっっっ!!」
怒鳴るや否やマリアンヌは部屋の中に駆け去ってしまう。
「あっ、マリアンヌ!」
慌てて追いかけようとすると素早く扉の前に立った金糸の髪と海の碧さを称えた眼差しをしたメイド服の麗しい女性――――ミリーに止められた。
「アルドさ――――」
「お帰りください。お嬢様はご気分が優れません。それに私は
女神のような極上の笑みを浮かべるその裏に隠されたこの上ないほどの怒りを感じ取ったロドリグは危機感知をしてごくりと喉を鳴らす。いっそこのまま走って逃げ去りたい気分だったが、それではあまりにマリアンヌに失礼すぎる。かといって、今はロドリグの話を聞いてはくれないだろう。
そうなると、解決の糸口はこの人物しかいない。
「ミ、ミリーさん、申し訳ありませんけど少し付き合っていただけませんか?」
小さな声で中にいるマリアンヌに聞こえないようにそう頼むと、ミリーは薄笑いを浮かべた。「何言ってんの?」と言葉にしなくても伝わってくる怒りは分かっているが、諦めるわけにも行かずロドリグは何度も「お願いします」と頼み込んだ。
何回目かのリピートを終えると、ミリーは呆れたため息をつく。
「……3時から休憩ですから、近くのカフェで待っていてください」
「はい、ありがとうございます」
どうやら彼女にはまだ取り付く島がありそうだ。本気で安堵してロドリグはその場を後にした。
「マリアンヌ、あの、本当にすみませんでした……」
最後に部屋の中に向かって投げた言葉に返答はなかった。
*** *** ***
ミリーに言われたとおりロダー家のすぐ側にあるカフェにやってきたロドリグは、1階の窓際でカフェラテを飲んでいる。ここのカフェラテは好きなのだが、今はどうにも味が分からない。
「お待たせしました」
「あ、ミリーさ――――じゃない、アルドさん」
肩を叩かれ振り向けば、そこに立っているのは金糸の髪と海の碧さを称えた眼差しのスーツを着た男性。マリアンヌ専属メイドであるミリー・グッドナイトの
ミリアルドは着ていたコートを脱ぐと側にいた――――彼に見とれて立ち止まっていた――――ウェイトレスにコーヒーを頼んでロドリグに向かい合うように席に着いた。
「――――2重生活、慣れました?」
問いかけるとミリアルドは青年の表情で微笑んだ。
元々ミリー・グッドナイトとしてロダー家の次女・マリアンヌ専属メイドを勤めていた彼が同時にミリアルド・ミッドナイトとしても過ごすようになったのは数ヶ月前のからだ。
ある時、マリアンヌの姉・アンナに呼び出されたミリーはそこで素性をあらかた晒されたらしい。彼女自らの口でミリー……もといミリアルドの経歴を口にされた時はさすがのミリアルドももう駄目かと思ったという。
だが、結果は現在に至るとおり、むしろ全面バックアップでロダー家での立場が上がっているほどだ。その時のアンナ嬢曰く。
『随分マリアンヌは信頼しているみたいだし、
とのことだ。貴族のプレッシャーに慣れた(ロダー家は貴族ではないが)ミリーですらぞくりとさせるほどの「本気の目」をしていたらしい。ロドリグはあまりアンナに会ったことはないが、よほどマリアンヌが大切なのだろう。
しかしどうやらその感情を妹にばらしたくないらしく、その後に据わった目でこう言ったらしい。
『言っとくけどマリアンヌにこのことを言ったらありとあらゆる手段を使って苦しめますから! 間違っても、絶対、何があっても、言うんじゃありませんよ!?』
そっちの方が罰が重いの? という類の言葉をミリアルドは必死で呑み込んで頷いたという。
「ええ、随分。――――で、ロドリグ君?」
細い指がテーブルを叩く。笑顔は変わらないのに纏う空気ががらりと変わった。ロドリグは石化したように動きを止める。
「そんな世間話をするために呼び出したわけじゃありませんよね? この忙しい時期にメイドの貴重な休み時間潰したんですものそれ相応の言い訳を聞かせてくださいますよね?」
ミリーの声でミリーの顔でミリーの態度で、重圧をかけてくるミリアルド。正直マリアンヌに関してはミリアルドよりミリーの方がよっぽど怖いロドリグには効果
蛇に睨まれた蛙同様に小さくなって硬直するロドリグは、しかし勇気を振り絞って事の顛末を話し出す。最初にひと脅し入れたものの以降の彼(女)はおとなしくロドリグの話を聞いていた。
そして話が終わると、その途中に持ってこられたコーヒーを一口あおりため息をつく。
「なるほど、君の人柄がよく分かる出来事ですね」
呆れたような物言いだが、それでも顔はどこか嬉しさの混じる複雑なものだ。だがそれも、ロドリグに「良き医者」であることを望んだミリアルドだからこその表情と言えるだろう。マリアンヌとの約束を反故にしたのは許しがたいが「医者」として使命を全うし、「良き」者であるがために皆が休ませてやろうとあれこれした。文句も言いづらい。
「あの、マリアンヌがどこに行きたかったのか分かりますか? 今からでも遅くなければ謝って連れて行ってあげたいんで」
「あ、遅いですね」
「すが……う、そうですか」
完璧に言い終わる前にきっぱり言い切られてしまいロドリグはがっかりと肩を落とす。ミリアルドはその様を哀れにでも思ったのか、もうひとつの質問に答えるべく言葉を続けた。
「ロドリグ君、『氷上の舞姫』はご存知ですか?」
最近聞き慣れた通称を聞きロドリグは顔を上げ頷く。
「はい。スケート靴を履いて踊るダンスが非常に上手いお嬢さんでしたよね。仕事場でもいろんな人から話を聞きます。――――確か、近々こちらに来るとか。私も一度見てみたいなと思っているんですが、なかなか時間が取れなくて。こちらに来る時、時間が空いていればいいんですがね」
予想以上に反応されてミリアルドはまたため息をつく。どうやら本能的にマリアンヌの話題を避けたがっているらしいということと、世情に詳しいのか詳しくないのか分からない微妙さに対するものだ。
その反応に今度は気付いたロドリグが何事か尋ねると、ミリアルドはその答えをあっさり口にする。
「ロドリグ君、『いい医者になってください』と言ったのは確かに僕ですけど、世間の流れが分からなくなるほど忙しいのはよくないと思いますよ」
「え?」
何を言っているのかと不思議がる彼のほうがミリアルドは余計不思議だ。
「彼女がこちらに来てもう1週間経ちますよ。それで、今日が民間への最終公演だったんです。マリアンヌお嬢様は君が観たいって言っていたのを覚えていたので頑張ってチケット取ったんですよ。ちゃんと見られるよう周りの人に君に休みをくれって頼み込んで」
ミリアルドは今でも鮮明に覚えている。実家のコネではなく自分の力でチケットを獲得し、「いつもお世話になっているから」と彼の休みを彼のために打診して、今日のために新しい服まで縫っていた彼女を。
そして今朝、約束の時間になっても公演が始まる時間になっても公演が終わる時間になってもやってこなかった彼を待ち続けていた彼女を。
「っ」
「いたたたたっ。ア、アルドさん、すみませんすみません! ごめんなさい!!」
思い出したら腹が立ってきた。ミリアルドは手を伸ばしてロドリグの耳を思い切り抓る。5秒ほどそれを続けてから離すとロドリグの耳は真っ赤になっていた。
ロドリグはそれを押さえて悶えている。これは地味に痛い。
「……私はどうしたらいいんでしょう? ただでさえあの子に悪いことをしてしまったのに、そんなに頑張ってくれたと知ったら余計このままじゃ済ませられません」
生来の真面目さがありありと浮かぶ。ミリアルドはそんな友人を見て頬杖をついた。
本当は大事なお嬢様を悲しませるような輩は即行で排除するのだが、相手は恩人でもあり旧友でもあるロドリグ。何より本気で反省しているし、理由も職務を全うした結果と周りに好かれているがためだ。
少し手を貸すくらいなら、いいだろう。
「――――仕方ありませんね。挽回のチャンスを差し上げます。お嬢様を宥めて「ディナーに誘っておいでです」とお伝えしますから。謝罪に何をするかは君に任せます」
彼女を宥めてくれるだけでも今のロドリグにはありがたいことだ。話を聞いてくれなければ謝罪も何もない。
「ありがとうございますアルドさん!」
「どういたしまして。では、僕はこれで失礼しますね。
一人二役というのは決して楽ではない。ミリアルドはあまり屋敷にいないということになっているがミリーは基本的にいつも屋敷にいる。ミリアルドの仕事は少なくともミリーの仕事は多いのだ。
レシートを掴みかけた手を「自分が払う」とロドリグが止めた。話を聞いてもらった上にこれからまた一仕事してもらうのだ。これくらいしなくては罰が当たる。
「そうですか? ではお言葉に甘えて……。あ、じゃあ最後にアドバイスを。せめてプレゼントのひとつは用意してくださいよ? 時期にあったものをね」
ウインクをすると後ろの席のこちらを向いていた女性がカップを取り落とした。ガシャンと音を立てて壊れたそれを片付けに来たのは先ほどのウェイトレスだ。女性2人は何故か頷きあっている。
「時期に、ですか? えーと、年末ですし……」
口元に手を当て真剣に悩みだしたロドリグとは反対にミリアルドは驚いた顔をした。
まさか、いやでも……有り得る、か?
ミリアルドは引きつった笑顔でテーブルのロドリグの目の前の辺りをノックするように叩く。
「もしもし、ロドリグ君。君、今の時期で何を思いだします?」
唐突な質問にロドリグは目をぱちくりさせた。
「え、えっと、年越しですか……?」
当たって欲しくなかった予想通りの反応にミリアルドはテーブルに突っ伏す。
「暮れの元気なご挨拶する前にイベントがもうひとつあるでしょうが。
「……………………?」
まるで分からない、と言う顔をするロドリグ。ありえないと叫びたいが、このどこか抜けたある意味仕事一直線の青年の前には無駄なのかもしれない。ミリアルドは深いため息をつく。
「……………………ヒント。赤い服着た白ヒゲのおじいさんがトナカイの引くそりに乗ってプレゼントを配ります」
「あ。クリスマス」
ロドリグはようやく分かったらしく笑顔でぽんと両手を叩き合わせる。ミリアルドはこめかみに手を当てた。
「――――私、今猛烈にマリアンヌお嬢様が不憫でなりませんわ……」
自然と口調がミリーになるほどの天然ぶりに、ミリアルドは愛するお嬢様が哀れで仕方なかった。
ミリアルドと別れたロドリグは当てもなく町を彷徨った。先ほどまで気付かなかったが、なるほど確かに、世間はクリスマスで埋め尽くされている。
「マリアンヌにプレゼント……何を上げたら喜びますかね」
服――――は自分で作れるからあまり喜ばないだろう。ならば布? だがわざわざクリスマスにプレゼントする品でもない。菓子でも送ろうか。好みは熟知している。
「うん、そうしましょう」
そうと決まればすぐに彼女好みの菓子を買いに行こう。行きつけの菓子屋に向かおうと踵を返したロドリグの足は、しかしすぐに止められた。視界に入った
「お嬢様、いつまでそういてらっしゃるおつもりですか?」
屋敷に戻ったミリーは真っ先に主の元へ帰りお茶の準備をした。不機嫌な彼女を慰めるのが、ミリーにとっての目下最優先事項である。
ハーブティーを差し出すと、ベッドの上で丸くなっていたマリアンヌはムクリと体を起こしてそれを受け取った。そして音を立ててそれをすする。あまりに行儀のよくない行動だが、そうしたい気持ちも分かったのでミリーはそれについては何も言わずにベッドの脇にしゃがみ込んだ。
「面白いぐらい反省してましたよ、ロドリグ君」
ひとまずは彼と会ったミリアルドとして言葉を紡ぐ。彼としてロドリグに会いに行くことは出かける前にマリアンヌに報告済みなのでこれはその結果報告だ。
「……あっそ」
唇を尖らせ興味ない風を装っているがもじもじと絡む両手の指先が先を促していた。心得ているミリアルドはあくまで「勝手に話している」体を取ってしゃべり続ける。
「急患が続いてその対応に追われて寝たのが今朝方らしいですよ。それで仮眠のつもりが周りの好意によって熟睡してしまって、あんな時間になったとか」
彼が来た時のことを思い出したのかそれとも彼を待つ時間を思い出したのか、一度サイドテーブルに置いてカップを取り直した手に力がこもった。ピシリとカップにひびが入る。
あのカップは廃棄だな、よし、もらおう。などと頭の隅で考えながら主が手を怪我しないようにそっとカップを取り上げ別のカップにお茶を注いで差し出した。
「お嬢様との約束を守れないなんて万死に値する行為ですが、己の務めをしっかりこなしたと言う点に関しては立派だと思います。仕事を放棄して遊び呆けるなんてそれこそ責められて然るべきです。お嬢様はそう思われません?」
問いかけるとマリアンヌは顔を背ける。ミリアルドはそれを追いかけるようにベッドの上に腰かけ彼女の顔を覗き込んだ。目が合うと、彼女は複雑そうな表情をしていた。ミリアルドは優しく微笑みかける。
「お嬢様。お嬢様が尊敬してやまないロドリグ・エリオットとはどんな人物ですか? 個人の約束を故意に破る人ですか?」
問えば小さく横に振られる首。
「では目の前で苦しんでいる人がいても、『用事があるから』と放置する人ですか?」
更に問う。また首を横に、先より少し強く振る。
「では疲れて寝ていると、周りが『早く起きて出て行け』と叩き出したくなるような人ですか?」
また問うと、先より強く首を振った。
「では彼は、マリアンヌお嬢様を大切には思ってくださいませんか?」
問いを重ねると、これまで以上に強く首を振る。わずかに目の端に浮かぶ涙を取り出したハンカチで拭うと、ミリアルドは笑みを深めた。この正直さがミリアルドの好きなお嬢様の一番の魅力だ。
「あの手の男性は中途半端が出来ないものなんです。ここはレディの方が大人になりませんと。……もちろん、度が過ぎれば相応の報いは当然ですが、今日は――――許してあげませんか? 悪気はありませんし」
ミリーの笑みを浮かべる専属メイドの提案にマリアンヌは長い間黙りこくり、しばらくしてから小さく頷く。口でどんなに言っても最後まで憎んでいられないこの優しさが、ミリーが一番好きな彼女の長所。
嬉しそうな笑顔を浮かべるとミリーはすばやく立ち上がりクローゼットに向かった。
「さぁさ。では早速今夜の服を決めましょうか」
どんなのがいいですかねー、と鼻歌交じりに衣装を探るミリーに珍しくついていけていないマリアンヌがその名を呼びかける。ミリーはオレンジ色のドレスを手にしながら振り返った。
「ロドリグさんがディナーに誘っておいででしたよ。せっかくですからお好きなものたっぷりご馳走していただいてきてくださいな。あ、ドレスこれでいいですか? でも夜ですしねー」
本気で考えている様子の彼女の後ろ姿をじっと見つめ、マリアンヌはロドリグの顔を思い浮かべる。昼ごろ来た彼は身だしなみがぼろぼろだった。最低限は保っていたが、いつもの彼らしくない。それだけで彼が寝坊したことくらいはすぐに分かる。
だがあの時は理由なんてまるで考えなかった。ただ遅れてきたことが許せなくて、どうしてとかそんなこと考えられないくらい苛ついた。
(急患――――は、多いよね、この時期だし)
マリアンヌだって看護師だ。いつの時期に怪我人搬送が多いなどはさすがに覚えている。そしてロドリグが優秀であちらこちらで借り出されることだってとっくに知っている。何より、彼が多くの人に好かれているということは分かっている。だから皆この休暇を許してくれたのだ。自分より、誰より働いているのにめったに自分に褒美を与えない彼が少しでも休めればと考えて。
……なのに逆上して殴ったのはさすがにやりすぎた。
マリアンヌはベッドを降りると後ろからミリーに抱きついてその手元を覗きこむ。
「……それ可愛くない。ボツ」
ようやく行く気を表したマリアンヌにミリーは微笑んだようだった。
*** *** ***
夜の帳の下りた世界で飾り付けられた大きなツリーはきらびやかに輝く。その根元にあるベンチに座りロドリグは冷たく澄んだ空気のためかいつもよりはっきり見える星を見上げていた。
こんなにゆっくり星を見上げるのはいつ以来だろう。少なくとも季節がいつの間にか冬に移り変わっていたことをこうしてゆっくりと自覚するよりは前だ。吐き出した息が白くなることをロドリグは今日改めて自覚した。
「エリオットさん間抜け面してるよ」
手袋に包まれた手で両頬を挟まれ顔を下向けられる。目に入ったのは本日はじめて見るマリアンヌの姿だ。ロドリグは彼女が来てくれたことにほっとして表情を緩めた。
「来てくれてよかったです。その、今日は本当にすみませんでした」
立ち上がり改めて謝罪を口にする。マリアンヌは答えずにじっと見上げてきた。まだ不機嫌そうな様子を見せる彼女のその眼差しを、ロドリグは真正面から受け止める。ややあって、マリアンヌはため息にも似た息を吐き出した。その時の彼女が呆れたような笑顔を浮かべていて、ロドリグは少し驚く。
「あーあ。そんな顔されたら怒れないじゃん。エリオットさんのひきょーものー」
「えっ、あ、その、す、すみません……」
「もういいよ。昼ひっぱたいちゃったし。あたしこそごめんね?」
そう言ってマリアンヌはいつものような快活な笑みを浮かべた。ミリー……とミリアルドの説得のおかげかもう随分機嫌はいいらしい。ロドリグは心の中で友人に礼を述べながら思い出したようにベンチに置きっぱなしだったものを手に取る。
「マリアンヌ、これ、お詫びと言ってはなんですが」
両手でそれを差し出すと、マリアンヌは目をぱちくりさせてそれを受け取る。自然と両手で受け取り胸に抱いたそれは特有の匂いを発していた。
差し出されたのはほんのり赤く色づいた大きな花弁の花の束。時期に合ったロマンティックな贈り物ではあるがロドリグがマリアンヌに贈るにしては珍しい代物だ。いつも彼は食べ物ばかりを贈っていたのに。
マリアンヌの疑問が分かったのかロドリグは目を細めて花束に埋もれていたカードを開いた。そこに書かれていたのはマリアンヌの名前――――が、2つ。
「その花の名前、『マリアンヌ』って言うんですよ」
「え」
マリアンヌと、同じ名の花。そんなのははじめて聞いた。あからさまに顔に出しているマリアンヌにロドリグは花屋の店員に聞いた説明をそのまま口にする。
「アネモネ種の花で、大輪を咲かせるのが特徴です。まだ出たばかりなのであまり名前は知られていませんが圧倒的な存在感で最近人気になってきているそうですよ。本当は1月の花なんですけど早咲きで店頭に並んでいたので、買っちゃいました」
いつもどおりに彼女の好きな菓子の詰め合わせでも買おうと思っていた。けれど偶然花屋の店先で人に囲まれたこの花を、この花の名を見かけた時にこれを贈るべきだとそう思ってしまったのだ。
気に入ってくれるか分からない。もしかしたら自分のロマンチシズムを満たすだけの結果になるかもしれない。けれどこれを見かけたその瞬間から彼女に贈りたいと思ったのは事実だ。ならばその直感を信じるしか今のロドリグに出来ることはない。
「――――あなたにぴったりだと思いました。大輪も、赤い色も、圧倒的な存在感も、自然と人を惹きつける感じが特に」
気が付けば、彼女の周りにはいつも人がいる。ミリアルド、リーナ。ルイスもそうだし、なんだかんだでレオンも仲がいい。同僚や後輩、学生達の中にも彼女を慕う者は多くいる。あの明るい笑顔と人懐っこい性格が人との壁を取り払うためだろう。ロドリグだってその内の1人だ。
いつだって彼女はとても自然に人の中心にいる。
いつだって彼女はとても自然に笑顔の中心にいる。
だからきっと、花屋でたくさんの人が手にとっていたこの花を見て名前以上に彼女を思い出した。
だからきっと、
見つめた先でマリアンヌは花束を見つめ抱き締めている。最初驚きを浮かべていた表情は徐々に緩み、今ではあふれ出る笑みを抑えきれない様子だ。
「えー? えへへへー。あたしそう? こんな感じ? スター性出しちゃってる?」
くるくると上機嫌でモデルを意識して回りだすマリアンヌの表情はしまりのないにやけ顔と化している。スター性、には程遠いその表情だが、見ていて楽しくなるのは事実なので訂正はしない。
「あ、ねぇエリオットさん。今日の埋め合わせもう一個言っていい?」
ぴたりと止まると期待を込めた眼差しを向けられた。この眼差しには覚えがある。これは、絶対に断ってはいけない種類のお願いだ。
「はい。構いませんよ。何ですか?」
以前のチェリー事件を思い出すと顔が引きつるが多少は我慢しなくてはいけないだろう。「お詫びお詫び」と何度も頭の中で繰り返すことでロドリグは逃げ出したい気分を必死でごまかした。
だが、実際にマリアンヌが出した条件は想像とは随分方向の違う「お願い」だった。
「皆でクリスマスパーティーしましょ!」