軽く跳ねたような音しかしなかった。そのはずなのに、トマスの体は一気に空へと舞い上がる。
「うわあああああ!」
頭の上から押し寄せてきた空気と風がパッと消えたかと思うと、一瞬重さを忘れ去ったかのような解放感が訪れた。だがそれは、すぐに体の芯から抜けるような浮遊感へと変わり、ぞくりと背筋が冷える。それを自覚するが早いか、今度は容赦ない落下が始まった。先とは真逆の空気と風の洗礼に髪や服がばさばさと荒ぶった音を立てる。
「うひゃああああああ!」
堪え切れない悲鳴を上げながら目の前にある肩をこれまで以上に握りしめると、足を支えている腕の力が少し強くなった。安堵させるのが目的だろう。ありがたいことにその思惑は大成功だ。胴を押さえてくれているハーネスベルトより、鋼鉄で留められているような足の方がずっと安定感があった。これなら絶対落ちない。少し落ち着きを取り戻して流れる景色に目を向けているうちに、地面は近付き、トマスを背負う人物は軽い音と共に着地する。あの高さから落ちてきたのにほとんど音が鳴らないどころか、乗っているトマスにまるで衝撃がないのだから驚きだ。
「はいおしまーい」
朗らかに宣言すると、トマスを背負う人物はゆっくりと膝をつき、腰に巻いていたベルトを外す。そのベルトで彼に固定されていたトマスはそっと地面に足を付け彼から離れた。地面の安定感にほっとするや否や、トマスはその場で尻餅をついてしまう。
「わっ、大丈夫?」
背後でトマスが尻餅をついたことに気付いた彼はすぐさま振り向き慌てた様子を見せた。赤いカエルフードに視線を奪われながら、トマスはへらりと笑う。
「だいじょうぶっす~。ちょっとすごすぎて」
言語機能がマヒしている気がするが今はこれ以上はっきり喋れる気がしない。力が抜けた状態のトマスを彼が心配そうに見下ろしていると、周囲に幼い少年少女がわらわらと集まってきた。
「トマス殿、大事ないか?」
「情けないであるな。我輩はもっと高い所から降りても平気であるぞ」
「え? ノーチェちゃん、最初にやってもらった時大泣きして氷雨さんに泣きついたんじゃなかったっけ?」
「アベル、しー。言うと、ノーチェ、泣いちゃう、から」
「ボニトもはやくいっぱい高い所ぴょんぴょんしたいなー」
「ボニトちゃんはもう少し大きくならないと駄目ですよー。危ないことすると今度こそパパとママの心臓止まっちゃうです」
「あの時はオイラ、むしろあのおっさんの声で心臓止まるかと思った」
子供特有の高い声で話題があちこちに飛ぶ子供たちを前に、トマスは思わず笑みをこぼす。そんな彼に、人差し指と親指だけ布がない手袋をつけた手が差し出された。
「トマス君大丈夫? 立てる?」
手の元を追って視線を上げれば、緑色を基調とした衣装に身を包んだ少女――アルバ・エスペランサの軽く眉が八の字になった笑顔が目に入る。その隣には赤いカエルのフードが付いた上着を着た背の高い青年――に見える少年、ロナルド・アベーユが同じような表情をしていた。トマスはそんな彼らを安心させるように元気いっぱいに笑って見せる。
「大丈夫っスよ、アルバちゃん、ロニー君」
差し出された手を取りつつなるべく彼女に体重をかけないように立ち上がった。アルバに礼を述べてから、トマスは改めてロナルドに視線を向ける。
「いやー、話はちゃんと聞いてたし様子もちゃんと見てたっスけど、実際自分がやるともう『凄い!』以外の言葉が出てこないっスね! 面白いけど怖いし、怖いけど面白いし」
空で味わった恐怖と興奮を思い出しトマスは身震いした。
トマスが残っていたルイス、セザリスと離れたのはおよそ10数分前のこと。気が付いたら連れて来られていた日当たりのよい東屋あずまやで、用意されたお茶を飲みながら一息ついていた時のことだ。
整備された池を眺めていると、不意にそこを大きな影が横ぎった。セザリスも同じことに気付いたようだ。彼はトマスより先に椅子から立ち上がり、屋根の影がかかるぎりぎりで足を止めて空を見上げる。そして、ぎょっとした様子で半歩後ずさりした。
「どうしました?」
「何かいるんスか?」
ルイスとトマスがセザリスの横に並んで空を見上げようとしたその瞬間、突如目の前に何かが降り立った。鮮やかな赤がまず目に入り、続いてそれがカエルの顔をしていることに気付く。さらに一呼吸置いた時、それがただのフードで、それを纏った人物が少女をひとり背負って降りてきたのだと皆が気付いた。
「こんにちはー」
「こんに、ちは」
カエルフードの人物が元気に、彼の背に負われた小麦色の髪の少女が拙く挨拶してくる。少女の表情は動かないように見えるが、双眸は輝き、どこか興奮している雰囲気があった。
セザリスたちが動揺を隠しきれない様子で、それでもなんとか挨拶を返す。少女の表情はやはりあまり動かないが、満足そうに数度手を軽く叩き合わせた。どう対応すればいいのか、と迷っているうちに、謝に状況を報告するからと席を外していたアランが帰ってくる。
「ロニーさん、ジルダさん、どうしました?」
当たり前だがやはりここの住人らしい。アランに声をかけられたロニーと呼ばれたカエルフードの人物は軽く肩を揺らして少女――ジルダを示した。
「ロニー・コースターやってたらジルダちゃんがお客さん見つけて。挨拶したいって言うから降りて来ちゃったんです。……あ、驚かせちゃったならごめんなさい」
思い至ったように慌ててロニーが頭を下げると、背中のジルダもぺこりと頭を下げる。気にしてない、と大人の余裕を示しつつ、ルイスとトマスは「ロニー・コースターって何だろう」と疑問を抱いた。その隣で、セザリスがひとつ咳払いをする。
「ロニー君、だったか。その、ロニー・コースターというのは、先ほど私が見たような――君が屋根や木の上を飛び回るあれのことか?」
自分の目で見たものが信じられない、といった様子のセザリスに見開いた目を向けてから、ルイスとトマスはそのままの目をロニーに向けた。その視線の中で、ロニーはにっこりと明るく笑う。
「はい! 僕魔力高くて、自然と身体能力が強化されてるんです。それを利用して飛び回るのが通称ロニー・コースターです」
くるり、と背中を向けると、ジルダの体にハーネスベルトが巻かれているのが一同の目に入った。そのベルトは、ロニーの体に巻かれているベルトにつながっているようだ。
「ちなみにこのハーネスベルトはうちの兄の特製でして、衝撃吸収の効果が付与されている大変頑丈なものです。安全性は保障されております」
心配そうなセザリスに気を遣ったのかアランが補足する。そうか、と頷きながらもその目はやはりどこか不安げだ。一方で、目を輝かせているものがひとり。トマスだ。
「すっごいッスね! 人を背中に乗せたまま飛び回れるんスか? どんなサイズも?」
勢い込んで尋ねるトマスに、ロニーは胸を叩いて見せた。
「うん。もちろん、君も出来るよ。一緒に遊ぶ? あっちに僕の友達が何人かいるんだけど」
そう言って指差す先は白亜の宮。しかし、決してその建物内のことを言っているのではないだろう。ルイスが念のため、と「あの建物?」と訊くが、気負わない笑顔で「その向こう!」と返された。
「行、こ?」
ロニーの背中から手を伸ばしたジルダがトマスの肩口を指先で摘まむ。可愛らしい誘いに、トマスは明るく笑い返した。
「喜んでッス! あ、俺、トマス・ノーランドって言います。トマスって呼んで欲しいッス」
手を差し出せば、まずはすでに手を伸ばしていたジルダがその手を握り返す。
「ジル、ダ。主様の、人獣」
誇らしげな顔と言葉だが、その詳細は伝わらなかった。ちらりとトマスはアランに視線を向ける。様子を見ていたアランは一度噴き出すように笑ってから平を上に向けた状態の手をジルダに向けた。
「ジルダさんは純粋な人間ではありません。人獣、と呼ばれる、獣型や獣と人が混じった姿、あるいは今のような人の姿になれる種族の方です。彼女たちの世界では人獣にはまだ十分な人権がないため、姓を持つことは許されず、また、主を持たずに存在することも許されません。ジルダさんは、ジェンティーレさん、という女性の方の人獣です。ああ、ジェンティーレさんは人道的な方ですので、人獣は大事にしていますし、特にジルダさんたちのことは家族として扱ってらっしゃいますよ」
アランの説明に応じて、ジルダが軽く姿を変える。耳がイヌ科の獣のそれとなり、もふもふとした小麦色の体毛が顔や腕周りに生えた。尻尾も出ているのか、
またも客人たちは衝撃に包まれるが、幼い少女に怯えるのは――「怯えられた」と思わせるのは、大人として致したくない行動だ。ルイスが「そうなんですか」と笑顔を取り繕い、セザリスがなるべく顔を和らげている中、一瞬痛ましそうな顔をしたトマスはふっと頬を緩めた。そして、握手を解いた手でジルダの頭を撫でる。
「いい主様でよかったッスね。俺の主もとってもいい人なんで、後で紹介するッス」
かつて自分がエリザベスに拾われた時のことを思い出し、トマスは深い笑みを浮かべる。そんな彼の心情に近しい何かを感じ取ったのか、撫でられているジルダはここに来てようやく「微笑み」と呼べる程度に口元を動かした。
「僕はロナルド・アベーユ。ロニーって呼んで」
少し間を空けてから今度はロニー――ロナルドが手を差し出してくる。トマスは「ロニー君ッスね」と躊躇なく愛称を呼びつつ握手に応じた。
「じゃあ行こうか、跳んでけばすぐだから――」
「ロニーさん、ハーネスベルトなしで跳び回るとリーゼさんに怒られちゃいますよ」
トマスを担ぎ上げようとしたロナルドは、アランの軽い制止にびくりと震えて動きを止める。
「リーゼさん?」
ルイスが鸚鵡返しで尋ねると、ロナルドの姉だ、と返された。
「うー……姉ちゃんは心配性すぎるんだよなー。小さい子たちならともかく、僕と同い年以上の人たちの時まで怒るんだもん」
「安全、第、一。楽しく、あそ、ぶためには、ルール、必要。主様、言って、た」
長い手足をたたんで大きな体を丸めるロナルドの頭を、ジルダは慰めるように撫でる。
「ちぇー、分かったよー。じゃあ歩いて行こうか。行こう、トマス君」
「はいッス! あ、じゃあ俺ちょっと遊んできますね!」
残るルイスとセザリスに大きく手を振り、トマスは意気揚々と目的地へと向かった。
そうしてたどり着いた先でトマスを迎えてくれたのは、ロナルドたちの友人だという面々である。まずロナルドと同じ世界に住み、かつ元の世界でも面識のあるの少女たち、アルバ・エスペランサとボニト・ミスカ。同じ世界に住んでいるが元の世界での面識はない少年少女、アベル・ブローサとディエイラ・ムーンスティア。ジルダと同じ世界であり、彼女と同じ主を持つ少年、アロルド。誰とも違う世界に住む少女たち、ファーラ・リッドソンとノーチェ。この7人である。自己紹介してくれた彼ら曰はく、ディエイラが鬼、アロルドが人獣、ノーチェがホビット、残りの面々は普通の人間らしい。
随分年齢がばらばらに見える組み合わせだったので年を訊いたところ、ロナルドとアルバが15歳、アベルが12歳、ファーラが11歳、アロルドが10歳、ノーチェとディエイラとジルダが8歳、ボニトが5歳だそうだ。それを聞いた時、トマスはロナルドの年齢にまず驚き、次いで彼が――そして彼に触発されてアルバたちが勘違いしている「あること」に気が付く。とはいえ、いつものことなので訊かれるまではわざわざ言うつもりはないので黙っていた。早くも「友人」として対等に対応してくれる彼らの行動が嬉しかったから。
「では、次の回はトマス殿に譲ろう」
ここに連れて来られた経緯を説明し終わると、ディエイラが提案した。
「よいのか? 次はディエイラの番であるぞ」
ちらちらとトマスを見ながらノーチェがディエイラの袖を引く。どちらも口調は子供らしくないが、ディエイラの方が中身も伴っているらしく、まるで気にしていない様子で牙をのぞかせた。
「もちろんだ。此こはいつでも乗せてもらえるからな。客人に譲るのは当然だろう。――ふふ、そんな顔をするなノーチェ、此はちゃんと其しの気遣いも分かっている」
気遣いが的外れだったかとしょぼくれた顔をするノーチェに吹き出し、ディエイラは彼女の両頬を掌で挟んでぽにぽにと押しては引いてを繰り返す。
「別べふに落ち込んでないでれある! 我輩はそんなにお子様ではない!」
手をばたつかせて主張するものではない。トマスも思わず笑いをこぼしていると、ロナルドが視線を向けてきた。
「ということらしいけど、どうする?」
やってみる? と言外に尋ねられ、トマスは僅かな逡巡ののちに大きく頷く。滅多にない体験だ。やらないよりはやった方がきっと楽しい。
「お願いしますッス!」
力強い是を受け取り、ロナルドはトマスを空へと連れ出した。
――そうして空を跳び回った結果が、今である。興奮気味のトマスに、すでに体験済みの子供たちは「そうだろう、そうだろう」と胸を張っていた。彼らにしてみれば、自分たちの友人が褒められたことの喜び、かつ自分たちがこの遊びを先に知っていたことの優越感があるのだろう。
「最初はね、ハーネスベルトなしで跳び回ってたんだけど、姉ちゃんに怒られて、みんなの保護者の人たちからも『子供を背負う時はお願いだから安全な方法で』って言われちゃって。そしたらラリーさんがこれ作ってくれたんだ」
言いながらロナルドが摘まんだのはトマスがつけたままのハーネスベルト。多少の弾力性がありながらしっかり固定されているそれに、開発者の技術の高さを感じた。
「いい発明ッスね~。オレ多分これなかったら乗るって決意出来なかったかも。あはは、こんな小さい子たちがやれたこと出来ないんじゃ情けないッスけど」
軽い自虐を込めて笑っていると、はっとしたアベルが小走りに駆け寄って来てトマスの袖を何度か引く。
「あの、僕は最初怖くて乗れなかったんですけど、このベルト出来てからみんなと遊べるようになったんです。情けないな、って僕も思ってました。でも、みんなはそんなことないって言ってくれて。だからあの、トマスさんも情けなくないです! 一緒です」
必死のフォローにはただただ優しさが込められていた。思わずぽかんとしてしまったトマスも、じわじわとそのあたたかさが胸に伝わるにつれ、自然と頬が緩んでいく。
「アベル君と一緒ッスか! それじゃあ全然情けなくないッスね」
仲間仲間、とトマスがアベルの両手を握って上下に振るった。手を取られたアベルは自分の言葉が通じたことを喜びつつ、やはりどこか照れくさそうな顔で少し俯く。口元は笑みを隠しきれない様子で歪んでいた。
「それにしても、仲良くなったのがみんな年下って言ったら、『精神年齢が近いからだな』とか姐さんに笑われそうッスねー」
かつて今の自分と同じような立ち位置にいた男も、実はここでは年下ばかりと仲良くなっていることを、この時のトマスは知らない。
「あはは、年下って言っても、トマス君僕たちと年そんなに変わらないでしょ?」
「私たちよと同じか、1つ2つ上ぐらいだよね?」
先ほどトマスの年を訊く前に話が別に移行してしまっていたことを思い出したのか、ロナルドとアルバが年齢の話に乗ってくる。彼らが出した前提に、自分の予測が正しかったことを確信したトマスは「いやいや」と笑って自分の顔の前で手を振った。やっぱり勘違いしていたようである。
「俺もう20歳超えてるッスよー」
さすがにそろそろ自分が童顔ということをきちんと認識しているトマスは、怒りも焦りも悲しみもしない。ただただ笑い話のひとつとしてそう答えた。
だが、少年少女には刺激が強すぎたようだ。ぽかん、と口や目を見開く子供たちからは、一瞬すべての音が消える。そして数拍後、タイミングがほぼ揃った驚愕の声が風吹く宮に響き渡った。